戦国IXA のろしのBLOG もくっ ・ε ・

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【戦国IXA】10 月の追加武将一覧

どもどもどもー εεε (っ*´з`)っ

      のろしですもく ε=( *・з<*)ゝ

 

スポーツの秋 食欲の秋 芸術の秋

みんなはどんな秋を過ごしているかなもく?

 

戦国IXAは今月も素敵なイラストの武将たちが追加されて

まさに芸術の秋といった感じもく (● ´ε` ●)

 

 10月追加武将 が 公開されました もく

 

追加されるのは

【 傑 】 千利休さん

【 極 】 松前慶広さん 真壁氏幹さん 佐野昌綱さん 北政所さん

【 特 】 吉川経家さん 戸川達安さん 堀直寄さん

【 上 】 伝妙院さん 

【 序 】 海野棟綱さん

以上の 10 名

 

そして

宮本武蔵さん 佐々木小次郎さん 柳生石舟斎さん

以上の 3 名 がそれぞれ

新規イラストでの 【 天 】 と 

スキルやステータスを新しくした

イラスト復刻版の 【 極 】 で 登場するとのこともく

 

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佐野昌綱【 極 】、北政所【 極 】、

宮本武蔵【 天 】【 極 】、佐々木小次郎【 天 】【 極 】、柳生石舟斎【 天 】【 極 】は

取引出品・譲与不可で

2023年1月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

 

千利休【 傑 】は取引出品・譲与不可とのこともく

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▼レアリティ【 傑 】について

https://sengokuixa.jp/new_rarity/

 

堺の豪商であり茶人でもある武野紹鷗さんに茶の湯を習った 千利休 さんは、簡素簡略を重んじた紹鷗さんの「わび茶」を完成させたとされる人物で、のちに「茶聖」とまで称される茶人となったもく

織田信長さんに茶頭として仕えた利休さんは、続いて天下人となった豊臣秀吉さんにも仕えて重用され、黄金の茶室の設計や北野大茶湯と呼ばれる茶会の主管などを任されたもく

茶の湯に関することだけでなく、まつりごとに関しても小さからぬ影響力を持つほど秀吉さんの信頼を得ていた利休さんだったけれど、天正十九年、突如として秀吉さんから蟄居を命じられ、その後、弟子たちの助命嘆願もむなしく切腹させられてしまったもく

秀吉さんを怒らせた原因については、利休さんの設置した木像が不敬であったという説や、茶器を高値で売りさばいて私腹を肥やしたという説など、様々な説があるけれどはっきりしたことはわかっていないもく

 

 


 

 

 

佐々木小次郎さんとの「巖流島の決闘」や二本の刀を用いる兵法などで有名な 宮本武蔵 さんは、「五輪書」という兵法書を著したこともよく知られており、そこには十三歳から二十九歳までに六十余度の勝負をおこなって一度も負けたことがないと書き記されているもく

そういったことから剣豪としてひとりで戦う印象が強い武蔵さんだけど、関ヶ原の戦いのときには黒田如水さんに従って九州で戦ったといわれ、また、大坂の陣では徳川家の譜代家臣である水野勝成さんの客将として参陣するなど、大きな合戦にも参加していたみたいもく

また、武蔵さんは剣技だけでなく芸術面にも非凡な才能をもっていたようで、武蔵さんが描いた個性豊かな水墨画がいくつものこされているもく

 

 

 

 

 

宮本武蔵さんとの「巖流島の決闘」で有名な 佐々木小次郎 さんは、武蔵さんと決闘したときはまだ十八歳だったという説もあれば、二十九歳の武蔵さんよりもかなり年上の老人だったという説もあるなど、生年や経歴に多くの謎がある剣客もく

「巌流」という流派を創始したことでも知られる小次郎さんは、物干し竿と呼ばれる大太刀を小太刀でも扱うかのように自在に使いこなしたといわれ、武蔵さんとの決闘でも三尺の白刃を手にしていたと伝わっているもく

武蔵さんとの決闘に敗れて小次郎さんは命を落としたと伝わっているけれど、その決闘の内容については諸説あり、決闘自体がおこなわれていないという説や、そもそも小次郎さんが実在したかどうかさえ疑問視する声もあるとのこともく

 

 

 

 

 

大和国柳生庄の領主柳生家厳さんの嫡男として生まれた 柳生石舟斎 さんは若い頃から剣術の腕を磨き、三十四歳の時、新陰流の流祖で「剣聖」と讃えられる上泉信綱さんと出会い弟子入りして、柳生庄に信綱さんを招いたもく

石舟斎さんは信綱さんから、無刀の身で武器を持った相手を制圧する剣技「無刀取り」の公案という課題を与えられ、翌年再び柳生庄を訪れた信綱さんに、自ら工夫して完成させた「無刀取り」を披露して激賞されたといわれているもく

その後、新陰流の印可状を与えられた石舟斎さんは、領主として戦国乱世の波に悪戦苦闘しながらもその剣技を磨き、子や門弟に柳生新陰流を伝えたもく

 

 

 

松前慶広 さんは蠣崎季広さんの三男として生まれたけれど、長兄と次兄が相次いで毒殺されたために父のあとを継いで蠣崎家の当主となったもく

蠣崎家は蝦夷管領の流れを汲む安東家の代官として蝦夷地を治めていたけれど、慶広さんは天下人となった豊臣秀吉さんに接近して、安東家から独立した領主として蝦夷地を支配するようになったもく

徳川政権下でも安堵状が与えられ、蝦夷地の領地権、徴役権、交易の独占権を得た慶広さんは姓を松前と改め、日本最北となる松前藩の初代藩主となったもく

 

 

 

常陸国の大半を支配下に置く佐竹家に従属する国人領主真壁家の当主 真壁氏幹 さんは、戦場で、刀ではなく巨大な赤樫に鉄製の鋲を打ち付けた棒を振り回して敵をなぎ倒したといわれ、その勇ましさから「鬼真壁」と渾名されたもく

氏幹さんは佐竹義重さんに仕えて、佐竹家の主要な合戦にはほぼすべて参陣したけれど、真壁家領内の利害に関わるような合戦では佐竹家と対立することも辞さず、真壁家を独立勢力たらしめようとする気構えが見られたもく

また氏幹さんは、無敗の剣聖と評された塚原卜伝さんから剣術を学んだといわれ、自身も「霞流棒術」という流派を創始したもく

 

 

 

北関東に勢力をもつ佐野家の第十五代当主 佐野昌綱 さんは、北条家上杉家武田家の三勢力が北関東進出を目論むなか、懸命に佐野家の存続を保った名将もく

北条家と上杉家の争いが激化すると、昌綱さんは一度は北条家と結んだものの、上杉謙信さんの関東侵攻に呼応して北条家を裏切り、その後また上杉家を裏切って再び北条家に味方するなど、情勢を見極めながら強大な勢力の狭間で巧みに生き抜いたもく

唐沢山城を居城とした昌綱さんは、謙信さんから約十回も攻められたけれど、一時的な降伏などの戦略もとりながら何度も防衛と撃退に成功したため、唐沢山城は関東一の山城と賞賛されたもく

 

 

 

ねねや高台院という名でも知られる 北政所 さんは、まだ織田家の下級将校に過ぎなかった頃の豊臣秀吉さんと結婚して、秀吉さんの日本史上稀に見る立身出世を陰に陽に支えた人物もく

当時としては珍しい恋愛結婚だったけれど、北政所さんは秀吉さんの女性関係にかなり悩まされていたようで、織田信長さんが北政所さんにあてた手紙には、秀吉さんを責め、北政所さんを気遣い励ます言葉が並べられていたもく

家臣の妻を気遣う信長さんの意外な一面が感じられると同時に、信長さんが手紙にこのようなことを書きたくなるほど、北政所さんが才気と人間的魅力に溢れた女性だったのではないかとも思えてくるもくね

秀吉さんの没後もそんな北政所さんのことを慕う武将は多く、彼女の態度や言動が関ヶ原の戦いでの諸将の去就に大きな影響を与えたといわれているもく

 

 

 

安芸国の名門吉川家の分家である石見吉川家の当主 吉川経家 さんは、本家の吉川元春さんに命じられ、羽柴秀吉さん率いる織田軍の攻め寄せる鳥取城に入城したもく

鳥取城主の山名豊国さんは織田軍に降伏しようとしたため家臣らに追放され、その家臣らの救援要請により派遣された経家さんは自らの首桶を持参して入城し、決死の覚悟を示したもく

秀吉さんの鳥取城攻略の作戦は徹底した兵糧攻めで、兵糧の蓄えが不十分だった城内では餓死者が続出し、その凄惨さからのちに「鳥取の渇え殺し」と呼ばれたもく

約四ヶ月の籠城の末に降伏した経家さんに対し、秀吉さんは自害の必要はないと伝えたけれど、経家さんはそれを拒否し、秀吉さんから自害の許しを得たのちに切腹してこの世を去ったもく

 

 

 

宇喜多家の家臣である 戸川達安 さんは、十三歳のときに備前辛川の役で初陣を飾ると、その後も宇喜多家が参加した数々の合戦に出陣して戦功を重ねたもく

宇喜多家が豊臣方として参加した根白坂の戦いにおいて、精強で知られる島津兵を多数討ち取る働きを見せるなど、豊臣政権下で重臣として宇喜多家を支えた達安さんだったけれど、秀吉さん没後に起きた宇喜多家中のお家騒動に巻き込まれ、宇喜多家を去ることとなったもく

宇喜多家を退去して徳川家康さんの家臣となった達安さんは、関ヶ原の戦いでも相変わらずの槍働きを見せ、石田三成さんの重臣島左近さんを討ち取ったのは達安さんだという説もあるもく

戦後、達安さんは三万石を与えられて備中庭瀬藩の初代藩主となったもく

 

 

 

堀直寄 さんの父堀直政さんは、「名人久太郎」の渾名で知られる堀秀政さんの従弟にあたり、その家老を務めて秀政さんの堀家をよく補佐したもく

秀政さんの没後、秀政さんの嫡男である秀治さんの家督相続を認めてもらうべく、直政さんは十三歳の直寄さんを使者として豊臣秀吉さんのもとに送り、その願いは聞き入れられたもく

秀吉さんに気に入られてその小姓となった直寄さんは、後年徳川家康さんと石田三成さんの対立が深まった際、西軍に味方して太閤殿下の恩に報いるべきだと主張したけれど、一族の合議の末、堀家は東軍に味方したもく

主張がしりぞけられて関ヶ原の戦いで東軍に味方した直寄さんは、その後も家康さんへの忠勤に励み、大坂の陣のあとには越後長岡藩主を経て越後村上で十万石の藩主となったもく

 

 

 

蠣崎季広さんの正室 伝妙院 さんは、蝦夷松前藩の初代藩主松前慶広さんの生母もく

伝妙院さんの父河野季通さんは安東家の家臣で、蝦夷地開拓を行っていた際、アイヌの軍勢による襲撃を受け、まだ三歳だった伝妙院さんを逃したあとに自害したといわれているもく

その後、河野家は一時断絶してしまったけれど、慶広さんの六男、つまり伝妙院さんの孫、季通さんにとってはひ孫にあたる人物が河野家を継ぎ、のちに姓は松前に戻したものの河野系松前家として宗家の藩主を補佐したもく

 

 

 

信濃では滋野三家と呼ばれる豪族が古くから勢力を張っていて、その三家のひとつが海野家であり、戦国時代にその海野家の当主となったのが 海野棟綱 さんもく

信濃の真田家は海野家の分家とされ、真田幸隆さんは棟綱さんの子、あるいは孫、あるいは娘婿ではないかといわれているもく

棟綱さんは、武田信虎さん村上義清さん諏訪頼重さんらの連合軍に侵攻されて領地を失うと、関東管領山内上杉家を頼って上野国へ落ち延びたけれど、その後、領地回復の悲願が成就することはなかったもく

 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

なお
「サービス開始12周年!生誕記念祭!!」第二弾で登場の
【極】藤堂高虎、【極】吉乃、【極】小少将、【極】黄梅院、【極】宇喜多モニカについても
排出停止となるとのこともく

https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n633a3e89218b7

 

 

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