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【戦国IXA】「 流天絶花 ~ 静謐の争奪 ~ 」 新天情報

2024 年 2 月 9 日( 金 )

   戦国IXA    新たなる舞台が開幕・・・!

流天絶 ~ 静謐の争奪 ~

 

 

 

↓↓  新たなる舞台の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/season27_wagahana/

 

 

新たなる舞台では

 

新【 傑 】武将カードとして 

室町幕府 最後の将軍が登場するもく!!!!

 

そして 大殿ならびに

新【 天 】武将カードとして 12 名の猛者達が登場するもく!!!!

 

 

 

↓↓  【傑】 の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/new_rarity/

 

足利義昭 さんは、室町幕府の第十五代、そして最後の将軍もく

第十二代将軍・義晴さんの息子として生まれたけれど、足利将軍家家督相続は長兄が担うことが慣例となっていたため、仏門に入っていたもく

しかし、兄であり第十三代将軍だった義輝さんが三好家勢力による永禄の変にて殺害されてしまったことで、運命が大きく変わることになるもく

当時は、将軍家の権威が衰えており、各地の戦国大名達が覇を競い名乗り上げていた時代で、その中でも躍進著しかったのが尾張織田信長さんだったもく

将軍家復権の思いを抱き還俗した義昭さんと、中央への進出を図る信長さんの利害が一致し、義昭さんは信長さんの協力によって将軍に就任することができたもく

ただ、良好な関係は長くは続かず袂を分かち、その後は諸将と連携して信長包囲網を築いていくことになるもく

 

 

 

戦国時代の顔役のひとり、現代でも多くの創作物に登場するなど人気の戦国武将で、誰しもその名を一度は耳にしたことがあるであろう英傑が、織田信長 さんもく

尾張戦国大名織田信秀さんの嫡男に生まれ、若年の頃には尾張の大うつけなどと嘲笑されたけれど、家督争いを収束させて尾張統一を成し遂げると、桶狭間の戦いにおいて当時覇権を握っていた今川義元さんを討ち取り、一躍その名を全国に知らしめたもく

覇道を歩み始めた信長さんは、将軍・足利義輝さんが殺害された後の、義輝さんの弟・義昭さんによる室町幕府再興の呼びかけに呼応し、義昭さんと共に上洛を果たしたもく

当初の信長さんは室町幕府再興に本気だったともいわれ、自身が将軍就任を後押しした義昭さんとの関係も良好であったけれど、次第に不和となって義昭さんを見限り追放したことで逆に室町幕府にとどめを刺す形となり、その結果、独自の中央政権維持のために、より苛烈な戦いに身を投じていくことになるもく

 

 

 

織田信長さんによって京を追放された足利義昭さんが頼ったのが、安芸の戦国大名 毛利輝元 さんもく

輝元さんは、一代で毛利家を中国地方の覇者に押し上げた元就さんの孫で、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将を務めたこともよく知られている人物もく

後にその大役を担うほどまでに毛利家の格が上がったことについては、将軍・義昭さんを庇護したことも少なからず影響があっとも考えられるもく

毛利家と織田家は義昭さんが将軍に就任した当時は同盟関係にあり、義昭さん追放後もその関係が続いていたため、頼られてすぐの頃には輝元さんも義昭さんの扱いに難儀したけれど、やがて信長さんが京から西方へ進出しようとする動きを見せ始めたため、輝元さんは反信長の立場になることを決意したもく

備後国に義昭さんを将軍に据えた室町幕府亡命政権が生まれると、その副将軍に任じられた輝元さんは、中国地方だけでなく全国で一目置かれる存在となっていくもく

 

 

 

武田勝頼 さんは、戦国最強軍団を率いた武田信玄さんの後継者もく

織田信長さんと仲違いになった将軍・足利義昭さんによる信長包囲網と時期を同じくした武田家の西上作戦の最中に、信玄さんが急死してしまったため、勝頼さんがその意志を継いで信玄さん亡き後の武田家を武勇によって牽引したもく

しかし、信玄さんの死の影響は大きく、長篠の戦いで織田徳川連合軍の前に大敗してしまい、窮地となった勝頼さんは、上杉家、北条家との同盟強化に乗り出すことになるもく

そこに思いがけない助けとなったのが、将軍である義昭さんからの、武田上杉北条の三者協力を促す呼びかけだったもく

同盟強化に成功した勝頼さんは、義昭さんを庇護していた毛利家とも同盟を結び、共通の敵である織田家に立ち向かっていったもく

 

 

 

北条氏政 さんは、強者揃いの関東勢の中、北条五代の四代目として優れた手腕を発揮し、最大版図を築いたもく

家督相続後は、父・氏康さんとライバル関係にあった信玄さんの武田家、謙信さんの上杉家と何度も敵対や同盟を繰り返しながら名声を確立していき、豊臣秀吉さんが天下を狙う頃には最期まで徹底抗戦する気概を示したもく

足利義昭さんとは生年が近くほぼほぼ同時代を生きており、義昭さんと織田信長さんの対立に関連して将軍家側から様々な働きかけも受けていたけれど、当時の北条家は織田家との友好関係の時代が長く、また、関東では伝統的に中央政権からの自立志向もあったようで、それらも影響したのか、中央のいざこざに深く関わった様子はあまりなかったみたいもく

 

 

 

代々近江国の守護を担い、将軍足利家とも縁深かった名門の六角家は、十四代の定頼さんとその子である 六角承禎 さん親子の時代に最盛期を誇ったもく

定頼さんは時の将軍であった足利義輝さんを度々庇護し、その跡を継いだ承禎さんにおいても、将軍家の権威を脅かそうとする三好長慶さんと何度も争ったり、義輝さんと長慶さんの和睦を仲介したりして存在感を示したもく

その後、浅井長政さんの台頭などによる近江での勢力争いに身を置いていたけれど、義輝さんが三好家勢力により殺害される事件によって状況が変わるもく

はじめ承禎さんは将軍家の復権を目指し行動を開始した足利義昭さんに協力する方針だったものの、三好家の説得によって敵対の方針に転じ、これによって義昭さんを奉じた織田上洛軍との戦いの火ぶたが切られて、何度も信長さんに抗っていくことになるもく

 

 

 

豊臣秀吉 さんは、一代にして関白にまでのぼりつめ、天下統一も成し遂げた戦国一の出世頭として、織田信長さん、徳川家康さんと並び、三英傑と称されたもく

若くして織田家の有力家臣となり、信長さんの天下布武を目指した勢力拡大の動きの中で功績を重ねて成り上がっていったもく

そうして信長さんから厚い信頼も得た秀吉さんは、毛利家を討つための中国攻めの大役を任されたのだけど、その最中に起こったのが本能寺の変もく

いずれも遠征に出ていた織田家重臣らの中で、秀吉さんは信長さん討死の報に対していち早く反応し、かたきである明智光秀さん討伐を足掛かりとして、織田政権の後継者争いに勝利することになるもく

自らの政権を確立して関白に任じられた秀吉さんは、追放されていた将軍・足利義昭さんを京に呼び戻すと、将軍職を朝廷に返上させたうえで厚遇し手駒とするなど、権勢をほしいままにしたもく

 

 

 

宇喜多直家 さんは、下剋上によってのし上がり、豊臣秀吉さんの将来を見込んで預けた息子の秀家さんが豊臣政権の五大老のひとりになるなど、宇喜多家を戦国大名へと押し上げた人物もく

幼少期には苦難の人生を過ごし、その際に斎藤道三さんや松永久秀さんに並ぶような悪人人格が形成されたといわれ、嘘か真かわからないものも含めて、目的のためには手段を選らばぬ逸話が数多く伝わっており、戦国の三梟雄のひとりとも評される陰謀家のイメージが定着しているもく

実際どうだったのかはともかくとして、青年期の直家さんは備前国戦国大名浦上宗景さんの下で力をつけていき、足利義昭さんが将軍になった際に、それに従う様子のなかった宗景さんに反旗を翻したもく

既に中国地方有数の実力を備えるに至っていた直家さんは独立の道を選び、織田信長さんの命を受けて中国地方に進出していた秀吉さんや、中国地方の有力大名・毛利家らが陣取る舞台に歩を進めていくことになるもく

 

 

 

ルイス・フロイスさんから日本最大の海賊と評されたのが、村上水軍を率いた 村上武吉 さんもく

村上水軍は、能島、来島、因島の三島に分かれてそれぞれ独自の勢力として瀬戸内海を支配していたのだけど、武吉さんは能島村上水軍の後継者争いを制して、他勢力とも良好な関係になるなど、村上水軍の全盛期を築いていったもく

大内義隆さんを討って大国大内家の実権を握った陶晴賢さんと、毛利元就さんの間で起こった厳島の戦いでは、毛利家に味方したといわれ、この戦いによって中国地方の覇権が毛利家に移ってからは、毛利水軍の一員としての活動が多くなるもく

毛利輝元さんが将軍・足利義昭さんを庇護して織田信長さんと戦うことになると、村上水軍は第一次木津川口の戦いの大勝に大いに貢献したと伝わるもく

 

 

 

相良義陽 さんは、十二歳という若年で相良家第十八代当主となり、内乱をおさめて国をまとめ上げたもく

相良家は肥後南部を拠点としていて、代々周辺では大国同士がしのぎを削っており、義陽さんの時代においても大友家、島津家、龍造寺家などの強豪が周囲を囲んでいたもく

そうした地盤もあったためか、義陽さんは、朝廷や幕府への献金を積極的に行い中央との関係を強化していたようで、織田信長さんが足利義昭さんを奉じて上洛し、義昭さんのための二条城修築費用を諸大名に求めた際には、朝廷への貢租七年分相当の費用を献じたそうもく

そして、先祖代々の地を守ろうと腐心し続けた義陽さんは、抵抗むなしく島津家に降ることになってしまうのだけど、壮絶な最期と引き換えに本領と家柄を守りぬくことに成功するもく

 

 

 

土佐七雄のひとつであった家に生まれた 長宗我部元親 さんは、幼少の頃は色白でおとなしく、家臣からも姫若子と揶揄されて、初陣も当時としてはかなり遅い年齢だったもく

しかし、初陣で周囲の評価を大きく変えるほどの大活躍をし、以降は鬼若子と呼ばれるほどの勇猛さと無類の強さで土佐を平定したもく

元親さんの正室は、将軍・足利義輝さんの家臣の親戚で、明智光秀さんにも縁のある人物だったもく

義輝さんが殺害された事件後に足利義昭さんを奉じて中央で絶大な力を得ていた織田信長さんとは、光秀さんを通じて繋がり、信長さんから四国でのさらなる勢力拡大を容認されることになるもく

かくして元親さんは四国の覇者へと至るのだけど、その後には、信長さんの同盟反故、本能寺の変、大敵秀吉さんとの対立という激動が訪れるもく

 

 

 

伊達輝宗 さんは、祖父・稙宗さんと、父・晴宗さんの間で起こった内乱によって衰弱していたお家を立て直し、その後の伊達家躍進の土台を築いた名将もく

外交を得意として、周辺勢力だけに留まらず、足利義昭さんを奉じて中央の実力者となっていた織田信長さんとも友好関係を構築するなど手腕を振るったもく

嫡男には政宗さんがおり、手厚い教育を施し、さらに有望な若手家臣を家中から選んで、片倉景綱さんなど後に政宗さんの側近となり活躍する者達を早くから息子に仕えさせたもく

また、自身が健在のうちに政宗さんに家督を譲っているけれど、これも政宗さんのことを案じて無用な後継者争いが起こらぬよう思案したものではないかと推測されているもく

最期もまた息子のためにという状況だったようで、人質としてさらわれた際に、伊達家の枷になるわけにはいかないからと、自身もろとも敵を討つよう促して命を落としたもく

 

 

 

戦国最強の兄弟という呼び声も高いのが薩摩の島津四兄弟で、島津家久 さんは、その末弟だったもく

中興の祖である祖父の忠良さんから「軍法戦術に妙を得たり」と評されるなど若い頃から軍才を有したようだけど、自身のみ兄達とは母親が異なっていたことに引け目を感じて日々武芸に励んでいたため、その才能はより磨かれていき、初陣にして敵将を討ち取る活躍を見せたもく

毛利家に身を寄せていた将軍・足利義昭さんから島津家に対して、中央に目を向ける毛利家の背後を脅かそうとしていた大友家を止めるよう御内書が出されると、家久さんは大友軍を相手にした耳川の戦いでも戦巧者ぶりを遺憾なく発揮したもく

耳川の戦いにより大友家が衰退すると、九州の覇権は、島津家、龍造寺家の間で争われ、家久さんは必殺の釣り野伏によって敵の大将である龍造寺隆信さんを討ち取る大功を立てて、島津家を九州制覇へと導いたもく

 

 

 

 

なお

足利義昭【 傑 】 織田信長【 天 】 毛利輝元【 天 】 については

取引出品・譲与不可とのこともく

 

 

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今回の【傑】【天】武将カード追加時に

下記の

【傑】武将カードは 全てのくじから
【天】武将カードは 一部くじより 排出停止とのこともく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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