こーん こーん こーん にちはーもく
のろしもくっ
朝おふとんから脱出するのも難易度があがってきたけれど
テイッ ( ( ⊂(^ε^))⊃)))^ε^)⊃ ) ) テイッ テイッ
反復横跳びでからだをあたためつつ
戦国IXAの ほっとな顔ぶれをご紹介もく
11月 の 追加武将 が 公開されました もく
追加されるのは
【 極 】 長尾晴景さん 毛利秀元さん ヴァリニャーノさん 上杉謙信さん
【 上 】 山中長俊さん
【 序 】 楠木正盛さん
以上の 9 名
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ヴァリニャーノ【 極 】、上杉謙信【 極 】は
取引出品・譲与不可で
2023年2月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく
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長尾晴景 さんは、下剋上を起こして越後の事実上の支配者となった父の為景さんから越後守護代を引き継いだもく
しかし父の行いにも起因する越後の内乱を収めることができず、病弱でもあったため弟の景虎(のちの上杉謙信)さんに家督を譲って隠居したというあまりぱっとしないイメージが定説であったけれど、近年の研究では名君であったという見方もあるようもく
それによれば、越後守護の上杉家を傀儡として強行策で実権を握った父とは異なり、極力戦わないことを重視した宥和政策によって越後の国人や守護の上杉家と関係を良化させると、東北の覇者として勢力を拡大していた伊達稙宗さんの越後侵攻を巧みな外交戦略によって退けて、越後の独立を保ったうえで弟に家督を譲ったと考えられているもく
毛利秀元 さんは、毛利元就さんの四男である穂井田元清さんの子として生まれ、同じく元就さんの孫であり当主を継いでいた輝元さんに実子がいなかったため、その養嗣子になったもく
豊臣秀吉さんからも「秀」の偏諱をうけ、毛利家の跡継ぎとして才覚を認められるほどだったけれど、輝元さんに実子が生まれたので辞退したもく
それでも初陣となった文禄の役、続く慶長の役では病に伏した輝元さんに代わって大将を担うなど大活躍をして、次第に毛利軍の運営においては中心になっていったもく
関ヶ原の戦いでも毛利軍の大将として出陣し自身は戦う気満々だったけれど、ここで世に知られる西軍敗北要因のひとつ「宰相殿の空弁当」の状況に巻き込まれて、のちの毛利本家、分家の確執にも繋がるしこりを残すことになってしまうもく
時の教皇とも親交があったイタリアの名門貴族出身の ヴァリニャーノ さんは、格式高い大学で法学などを学び、聖職者をめざしてカトリック教の修道会のひとつであるイエズス会に入会して専門機関でさらに多岐の分野について学びを深めたもく
ついに司祭に叙階されると、東インド管区の巡察使に抜擢されて総長の名代として管区内の宣教活動に尽力することになり、その果ての地にあった日本にも訪れたもく
ザビエルさんの来日から三十年ほどが経過し日本国内のキリスト教徒数も十万を超えていたともされるが、ヴァリニャーノさんは当時の日本でのアジア人蔑視の宣教方針をよしとせず、日本文化への歩み寄りや相互理解に重きを置いた方針へと改めたもく
そして日本各地を巡って権力者である織田信長さんや、大友宗麟さんらキリシタン大名らと謁見し後ろ盾を得て、天正遣欧少年使節を発案するなど活動は当初順風であったけれど、やがて戦乱の世の荒波に揉まれることになってしまうもくぅ
越後の龍こと 上杉謙信 さんは、越後の守護代であった兄の長尾晴景さんの命によって還俗し初陣から圧倒的な武力によって争乱を収め続けて、生涯七十を超える合戦でもほぼ敗北を知らず、あまりの強さから軍神と呼ばれて恐れられたともいわれる戦国最強武将のひとりもく
さらに宿敵である武田信玄さんとの川中島の戦いや、武神毘沙門天を熱心に信仰し義を重んじた生き方などから今日でもとても人気のある武将であり、一方で謎が多くあるとされる人物なので、創作物への登場も枚挙にいとまがないもく
そのため魅力的な逸話や伝説も数多く語られていて、中には書状の文体が女性的なこと、跡継ぎが重要視される当主の立場になっても生涯独身であったことなどから女性説というのも根強く残っているみたいもく
関ヶ原の戦いの二年後に家康さんの十男として生まれた 徳川頼宣 さんは、二歳にして水戸藩を与えられたけれど水戸には入らぬまま駿府藩主となり、晩年を迎えた父のもとで寵愛と期待を受けて育ったもく
幼少期は気性が荒く大坂の陣の頃にはまだ暴れん坊な様子も目立ったようだけれど、泰平の世へと時代が移り変わり家康さんも亡くなると、転封となった和歌山にて政治家として優れた手腕を発揮することになるもく
和歌山城や城下町の整備、寺社の拡張、国人の懐柔、みかん産業の奨励、浪人問題の対策に取り組んでの治安維持など様々な政策の実施によって藩を大いに発展させて、紀州徳川家の祖としてその礎を築き上げたもく
紀州徳川家は江戸時代の分家御三家となり、八代将軍吉宗さん、十四代将軍家茂さんと御三家からは唯一将軍を出した家になったもく
庄林一心 さんは、子と孫の三代で名乗った「庄林隼人」の通称でも知られる武将で、天草一揆討伐などの活躍によって豊臣秀吉さんが加藤清正さんの家臣団の中でも特に武勇に優れた三人として称えたという加藤三傑のひとりもく
同じく三傑にあげられた飯田覚兵衛さんと森本儀太夫さんは清正さんとは幼少の頃からの仲だったけれど、一心さんは荒木村重さん、仙石秀久さんに仕えたのちに家臣に加わったそうもく
清正さんは、慎重さがあって忠実で、被害を最小限に抑える撤退戦の名手としても名を馳せた一心さんを古くからの家臣よりも厚く信頼したともいわれ、それぞれ気質の異なる三傑を適材適所で重用したと伝わるもく
幼少の頃より小姓として徳川家康さんに仕えた 成瀬正成 さんは、初陣である小牧・長久手の戦いで首級をあげて、直後には家康さんのもとに集まっていた根来衆の残党五十名を与えられて鉄砲隊の将になったもく
最年少ともいわれる大抜擢によって家康さんからの評価が高かったことがわかるが、天下人になった秀吉さんの前で披露することになった徳川家の馬揃えでは、秀吉さんの目にも留まって五万石での引き抜き話があったともいわれるもく
けれど家康さんへの忠義から二君には仕えられないと切腹もやむなしの覚悟で固辞したそうで、それによってさらに二人からの評価を高めたと伝わるもく
家康さんから離れずに済むと徳川家の忠臣として重要な役割を担い続け、家康さんの九男で江戸時代の分家御三家のひとつ尾張徳川家の祖となる徳川義直さんの家老に任命されて尾張藩の創成期を支えたもく
山中長俊 さんが生まれたのは、甲賀二十一家のひとつで甲賀流忍術の中心を担ったともいわれる山中家の庶流の家柄だったもく
甲賀は室町時代後期の鈎の陣以降には六角家と行動を共にしていたため、長俊さんもはじめ六角家に仕えており、六角義賢さんが織田信長さんに攻められた際には、義賢さんを保護して織田家と抗戦した功によって近江六人衆に数えられているもく
その後は六角家を離れて織田家に従い、柴田家の家老になると賤ヶ岳の戦いまで主君の勝家さんをよく支え、丹羽長秀さんに仕えたのちに秀吉さんに右筆として召し出されて、豊臣政権の奉行衆として多くの役職を歴任し、加増されて一万石の大名に列したもく
楠木正成さんは、後醍醐天皇による鎌倉幕府討伐を成し遂げて後世では日本史上一の戦略家と評される活躍をした人物であるけれど、続く南北朝時代には南朝方に与したため朝敵としての汚名も長く歴史に残ったもく
一族のほとんども南朝方に与したため、北朝に与して南北朝統一後に全盛期を迎えた室町幕府の時代には厳しい立場にあったことが推測されるもく
子孫達は没落していくつかの土地に逃れて、そのひとつで伊勢に落ち延びたことをはじまりとする伊勢楠木家は正成さんの嫡流と考えられているもく
伊勢楠木家の第八代であり最後の当主となったのが 楠木正盛 さんで、織田信雄さんに仕えて秀吉軍と戦ったけれど、小牧・長久手の戦いで討死したもく
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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく
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