こんにちはーっ! 元気ですかーっ!
p(〃>ε<〃)ノ のろしもくーっっ!!
いよいよ この日が や ーーーーーーーー ってきましたもく!!!
2021 年 8 月 13 日( 金 )
戦国IXA 新たな舞台が開幕・・・!
【 螺旋興亡 ~ 払暁の勇将 ~ 】★★★★★
↓↓ 新たな舞台の詳細はこちらもく
https://sengokuixa.jp/new_season/
新章では武将カードの仕様変更もあるとのこともく
↓↓ 天限突破の詳細はこちらもく
https://cache.sengokuixa.jp/www/2021tengen/2021080201.html
そして 新たな舞台の大殿であり
戦国 IXA の 新【天】武将カード として登場するのは
こちらの 12 名もくっっっ!!!
上杉景勝さんは、軍神から義を引き継ぎ武家の誇りを胸に、生涯の腹心である直江兼続さんと二人三脚で戦乱の時代を生き抜いた気骨ある人物もく
幼少期に母の弟である謙信さんに養子として迎えられ薫陶を受け育つと、実子がいなかった謙信さん急死後の家督相続争い・御館の乱を、武田家との関係強化などによって勝利し、上杉家の当主となったもく
しかしその混乱がまだ燻る中、今度は敵対関係となっていた織田信長さんの軍勢が迫り、武田家滅亡によって上杉家も窮地に陥ったが、本能寺の変によって難を乗り切ると、すぐに秀吉さんに接近しその天下を後押しした功績から豊臣政権の五大老の座に付いたもく
そして会津百二十万石に加増移封されて全国屈指の大大名になると、秀吉さん死去後には、同じ五大老のひとりであり次の天下を狙う徳川家康さんに堂々と喧嘩を売り、それが関ヶ原の戦いのきっかけになったともいわれているもく
かなりの愛刀家であったそうで、収集した刀の中には現代の国宝・重要文化財が多数あるんだってもく
毛利輝元さんは、父・毛利隆元さんが急死したため幼くして中国地方の覇者の座を引き継いだもく
13代将軍・足利義輝さんより「輝」の一字を賜って元服、幼年だったためしばらくは戦国一の智将と名高い偉大なる祖父・元就さんや、叔父の吉川元春さんが後見となって補佐したもく
祖父が亡くなりいよいよ独り立ちとなった頃、中央では幕府の権威が失われ織田信長さんが台頭、そして足利義昭さんが毛利家を頼り落延びてくると、当時毛利家は織田家と同盟関係であったが義昭さんの要望に応じ信長包囲網に加わったもく
戦況は反信長勢力が次々と脱落していき劣勢となったものの本能寺の変が起こったため一変、交戦していた秀吉さんと和睦が成立し、その後は秀吉さんの天下取りに臣従したことで豊臣政権では五大老のひとりに数えられたもく
関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立されたけれど、戦場には赴かなかったそうで、そのまま敗軍の将となったが毛利家改易は何とか免れると、減封された長門にて領国繁栄に尽力し、幕末で倒幕運動の中心を担う長州藩の礎を築いたもく
羽州探題を世襲するも停滞していた名門を、戦国大名として復活させた最上義光さんは、巧みな策略と剛勇さで「羽州の狐」や「奥羽の驍将」と呼ばれたもく
家督相続も一筋縄ではいかず、相続直後も周辺勢力支配に苦慮したため、内政の充実に舵を切り数々の善政によって領民の支持を得て、さらに織田信長さんに謁見し出羽守への推任を願い出るなどしっかりと足場を固めて、まずは威信を回復させたもく
そして義光さんは調略による敵陣営の切り崩しを得意とし、極力戦わず勝利を収めることができたそうで、それを可能として優れた観察眼によっていち早く秀吉さんに接近したことにより、奥州仕置では所領を安堵されたもく
しかし豊臣秀次さん切腹事件により愛娘の駒姫さんを失ったことが影響したのか、次第に旧知の間柄であった徳川家康さんとの仲を深めていくと、関ヶ原の戦いでは東軍に属し上杉景勝さんと戦い、その功を評価されて戦後には五十七万石を領する出羽山形藩の初代藩主へと至ったもく
幼少の頃より体格に恵まれ力が強かったことから刀の約二倍の重さの鉄製の指揮棒を愛用していたそうだが、一方で、妹を溺愛し筆まめだった一面もあり、やりとりした手紙が多数残っているらしいもく
生涯五十回以上の合戦に参戦したのに傷一つ負わなかったという逸話や、数々の輝かしい戦歴で戦国最強とも評されるのが本多忠勝さんもく
本多家は古くから徳川(松平)家に仕える家柄で、忠勝さんも幼少の頃から家康さんを支え続け、天下統一に導いたもく
家康さんの三河統一の際に頭角を現し若くして親衛隊に抜擢されると、織田家との連合で浅井・朝倉連合軍を相手にした姉川の戦いでは果敢な単騎駆けなどで勇名を馳せ、武田信玄さんと激突した一言坂の戦い後には「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多忠勝」という声が出るほど敵味方問わずその活躍ぶりを称えられ、やがて豊臣秀吉さんからも「天下無双の大将」だと絶賛されたもく
また、忠勝さんといえば、鹿の角をあしらった鹿角脇立の兜や、漆黒の甲冑、自らが葬った敵を弔うためにかけていたという大数珠、そして天下三名槍に数えられる愛槍・蜻蛉切といった出で立ちも有名で、最強伝説や忠義を貫いた武骨な人物像などとともに現代でも人気が高い武将もく
主君であった武田家滅亡、そして織田、豊臣、徳川と天下が移り変わる激動の時代に、着実にお家を守り抜いた名君が真田信之さんもく
父・昌幸さんは「表裏比興の者」、弟・幸村さんは「日本一の兵」として知られているため、幾分目立たぬという評価もあるが、しかしながらその実績は確かなもので、武田家滅亡の混乱の中、父を補佐し近隣にもその勇猛さが知れ渡っていたといわれるもく
そして領地を守るため徳川家と戦った第一次上田合戦では活躍が家康さんの目にも留まると、戦後の和睦において徳川方の重臣・本多忠勝さんの娘を妻として迎えることになり、また、父、弟と東西別れて戦うことになった関ヶ原の戦い後には敗将となった二人の助命嘆願が認められたことからも、相当な人物であったことがうかがえるもく
当時としては異例の長寿で93歳まで生き、四代将軍・徳川家綱さんの時代には歴史の生き証人として幕府から「天下の飾り」と呼ばれ、死去の際には家臣だけでなく多くの領民も悲しんだと伝わるもく
福島正則さんは、豊臣秀吉さんの親戚筋だったとされ、ねねさんとの間に実子がなかった秀吉さんに幼少期からかわいがられた子飼いの武将もく
小姓として仕えた後に初陣を飾り、秀吉さんの主立った合戦に参加し功を挙げ出世していくと、柴田勝家さんを相手にした賤ヶ岳の戦いでは一番槍の活躍により「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられてその名を轟かせたもく
続く四国征伐でも活躍し伊予今治に十万石を与えられて大名になり、秀吉軍随一の猛将としての地位を確固たるものとしていった正則さんであるが、良くいえば裏表なく豪快、悪くいえば荒くれ者や大酒飲みという逸話が多くあり、悪酔いでの約束で天下三名槍に数えられる家宝の日本号を取られてしまったこともあるらしいもく
そういう性根のせいか文治派の石田三成さんとはそりが合わなかったようで、秀吉さんの死を機に対立が決定的になり、反対に徳川家康さんとは接近したため、関ヶ原の戦いを前にした諸将の東西軍選択に大きな影響を与えたといわれるもく
正則さんがなぜ東軍に属したかについては、一本気な性格なので老獪な狸(家康さん)にうまく丸め込まれた、三成さんをよほど嫌いだったなど色々考察もあるようだけれど、東軍勝利に大貢献し安芸・備後四十九万石を賜ったもく
しかしその後の豊臣家を相手にした大坂冬の陣、夏の陣では戦地に赴くことはなかったと伝わるもく
豊臣秀頼さんは、父が時の天下人であった秀吉さんで、母は淀さん(織田信長さんの妹・お市さんの娘である浅井三姉妹のひとり)というもの凄い血筋を引き継ぎながら、時代に翻弄される生涯となったもく
秀吉さんはあとを継ぐ実子に恵まれず、甥の秀次さんを後継者とするため養子に迎えていたのだけれど、そんな中で秀頼さんが生まれたので当然秀吉さんは大層喜び、それが影響したのかは諸説あるが、やがて秀次さんは粛清されて切腹となり、さらに秀頼さんの世継ぎのために様々な無理を強いたといわれているもく
加えて、秀頼さんが生まれた時には秀吉さんは既に高齢であり、出生については当時から様々な噂があったことも影響したのか、秀頼さんがまだ幼年時に秀吉さんが亡くなると、政争に巻き込まれていくことになるもく
東西両軍とも秀頼さんのためにという大義名分であった関ヶ原の戦いであったが、その戦後処理から雲行きが怪しくなり、徳川家康さんによる天下を狙う動きが次第に顕著になってくると、豊臣家と徳川家は決裂し大坂の陣へと突入したもく
戦いに敗れて豊臣家滅亡の暗君とも評されるが、大坂方に集まった武将も少なくなかったことから器量申し分なく、家康さんに若年のうちに何とかしておかないとと思わせる程の才覚を有したのではと評する見方もあるみたいもく
また、母とともに炎上する大坂城にて自害したとされるが、死体がはっきりしないことから多種多様な生存説も伝わっているもく
築城名人であることと、何度も主君を変えて出世していったことで知られる藤堂高虎さんは、近江の小領主の家に生まれたが暮らしは豊かではなく、そこから己の実力で立身した傑物もく
はじめ浅井長政さんに足軽として仕え姉川の戦いなどで功を挙げたが、浅井家滅亡により浅井家旧臣や織田信長さんの甥・信澄さんのもとを転々とすることになり、いずれも長続きはしなかったもく
転機となったのが羽柴秀吉さんの弟である秀長さんとの出会いで、ここでは相性が良かったのか、数々の合戦で活躍するとそれに見合う正当な評価により出世を重ねることに成功、高虎さん自身も主君をとても信頼していたようで秀長さんとそのあとを継いだ秀保さんの二人が亡くなると出家して隠棲するほどであったもく
秀吉さんが才を惜しんだことで還俗すると、伊予七万石を与えられて豊臣政権下で活躍し、秀吉さんが亡くなると今度は徳川家康さんに仕えたもく
徳川配下の中には、主君を何度も変え、大坂の陣においては恩義ある豊臣方を敵に回して戦うような高虎さんを良く思わなかった者も少なくなかったが、そんな声を跳ね返すほどの活躍ぶりで家康さんから信任を得て外様筆頭の立場に至ったもく
不忠と評されることも多いが、裏切りなどで主君を変えたことはなく、秀長さん時代の働きぶりや、家康さんに仕えた後に生涯徳川家のために尽力した姿こそが本来のものとして、忠臣だと評する声もあるもく
四国の覇者である元親さんの子として生まれた長宗我部盛親さんは、四男でありながらその後継者となった人物もく
物心がついた頃には、秀吉さんの四国征伐によって長宗我部家は豊臣家の配下となっていて、従軍した九州征伐の際に、本来の後継者であり将来を期待された長兄の信親さんが戦死、残る二人の兄も他家の養子となっていたため、元親さんの強い後押しもあり家督を相続したもく
しばらくは父との二元体制であったが、父の死、秀吉さんの死が立て続けに重なり、間もなく起こった関ヶ原の戦いでは西軍につくことを選択するも、これが裏目になってしまうもく
若年による経験不足もあってか、本戦に参加したが何もできないうちに西軍が敗北し長宗我部家も改易されると、盛親さんはそこから長い浪人生活を送ることになるもく
寺子屋の教師をやってなんとか暮らしていたような時代もあるといわれるが、不屈の精神で堪え忍び復興の機会を待つこと10年、ついにその時は訪れるもく
関係が悪化する豊臣家と徳川家の戦いに旧臣とともに豊臣方としての参加を決意し、大坂の陣では「五人衆」に数えられる主力部隊を率いて奮戦、豊臣方の敗北が濃厚となる中でも最期まで再興の道を探ったもく
小早川秀秋さんは、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り大局を決定づけたことで広く知られているもく
豊臣秀吉さんの正室・ねねさんの兄の子であり、実子がいなかった秀吉さんの養子に迎えられて後継者のひとりとして育てられていたが、秀頼さんが生まれたことで状況が一変、実子を優先するために遠ざけられたとも取れる形で、毛利家の重臣で後継ぎがいなかった小早川隆景さんのもとへ養子に出されたもく
そして同じく秀吉さんの養子で、継承順では自身より上に位置する秀長さんが、秀頼さん誕生後に不可解な粛正にて切腹させられると、秀秋さんも嫌疑により十万石を没収されてしまうもく
さらに慶長の役から帰国した際には、秀吉さんから理不尽な減転封命令が出されて、多くの家臣の解雇が必要となり、長年の補佐役とも離れることになってしまったもく
この減転封命令には石田三成さんが関わる部分もあってそれをキーとする見方もあるみたいもく
秀吉さんが亡くなると、一連の扱いをひどく思ったのかあるいは他に思惑があったのか、徳川家康さんは秀秋さんを旧領復帰させたもく
天下分け目の戦いでは東西両軍から加増と、西軍からは秀頼さんが成人するまでの間の関白の地位を約束されたそうだけれど、秀秋さんはなぜ東軍を選んだのか?そこには様々な人間模様が見え隠れしているもく
黒田長政さんは、黒田官兵衛(如水)さんの嫡男で、父子ともに英傑達の天下取りに貢献したもく
官兵衛さんが織田信長さんの配下になり、その証として幼少の長政さんが織田軍の羽柴秀吉さんのもとに人質に出されたが、当時実子がいなかった秀吉さんには、同じく子飼いの武将として後の豊臣政権を支えた福島正則さんや加藤清正さんらとともにとてもかわいがられたもく
本能寺の変と前後し、官兵衛さんが秀吉さんの軍師として天下統一事業で力を発揮していくと、自身も初陣を飾って父に従い転戦し名をあげていったもく
家督を継ぐと豊臣政権の七将に烈し、文禄・慶長の役に参戦したが、この時に石田三成さんら文治派との確執が表面下し、秀吉さんの死により発生した政争では徳川家康さんに従ったもく
関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋さんや諸将の寝返り交渉をする役目を務め、戦場でも石田三成さんを支えた猛将・島左近さんを討ち取るなど、一番の功労者として筑前五十ニ万石を与えられ、福岡藩初代藩主を任されることになったもく
一説には、官兵衛さんが関ヶ原の混乱に乗じて九州から天下を狙ったが、長政さんの大活躍でまさかの一日で終戦となったため目論見が外れてしまい、これを切り取って偉大な父を子が超えたという見方もあるらしいもく
琉球王国は沖縄本島を中心にその周辺諸島からなり、1429年に尚巴志さんによる三山統一によって成立した独立国家で、朝貢関係の明や室町幕府、朝鮮など周辺諸国との交易で栄えたが、尚寧王さんの時代になると情勢が複雑化したもく
当時、東アジアでは西洋の交易圏侵入が始まっており、加えて、琉球王国に対しては天下統一を成し国外に目を向け始めた豊臣秀吉さんから朝鮮出兵についてほぼ恫喝に等しい協力要請が出されるなど、難しい舵取りを迫られたもく
徳川の時代になっても明との交易の道を模索する幕府からの協力要請が出されたが、これらをかわし続けるも、ついに1609年には家康さんの許しを得た薩摩藩の島津家の侵攻が始まり降伏したもく
薩摩へと連行され約2年帰ることができなかったが、国王としての威厳を保ち、その間には江戸にものぼり、道中の駿府で謁見した家康さんからも異国の王として迎え入れられたもく
琉球に戻ると、日本と明の両属という立ち位置で独特の文化を発展させていったもく
【天】武将カードとして初登場の 5 名を含めて
それぞれどんな活躍をしてくれるのか楽しみもくね (〃^ε ^〃)どきどき
なお
上杉景勝【 天 】 毛利輝元【 天 】 については取引出品・譲与不可とのこともく
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今回の【天】武将カード追加時に下記の【天】武将カードは一部くじより排出停止とのこともく
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