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【戦国IXA】「 回天演武 ~夢消えて現照らさる~ 」 新天情報

 

2023 年 2 月 3 日( 金 )

  戦国IXA  新たな舞台が開幕・・・!

 

【  天 演 ~ 夢消えて現照らさる ~ 】

 

 

↓↓  新たな舞台の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/season25/

 

 

新たな舞台では

 

新【 傑 】武将カードとして 

戦国の世に終止符を打った あの傑物が登場するもく!!!!

 

そして 大殿ならびに

新【 天 】武将カードとして 12 名の猛者達が登場するもく!!!!

 

 


 

↓↓  【傑】 の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/new_rarity/

 

新たに【 傑 】武将カードとして登場する 徳川家康 さんは、織田信長さん、豊臣秀吉さんと並び三英傑と称され、王道を進み戦国の世に終止符を打ち天下泰平を実現させた偉大な人物もく

今年の大河ドラマの主役としても注目を集めている家康さんは、三河国岡崎城主・松平広忠さんの嫡男に生まれて、幼~青年期を織田家、今川家の人質として過ごしていたもく

桶狭間の戦いを機に独立して三河一向一揆を乗り切り三河国平定を成すと、松平から徳川へと改姓し、忠誠心と強い結束力で知られる三河武士との絆や、信長さんとの同盟によって勢力を伸ばしたもく

その後、武田信玄さんに大敗した三方ヶ原の戦い本能寺の変による伊賀越えなどの窮地もあったけれど、秀吉さんが天下を取ろうという頃にはその最大のライバルと目される程の力を有し、警戒されたうえで臣従関係となり、関東移封を命じられて江戸城に入ったもく

秀吉さんが亡くなると、関ヶ原の戦いで東軍の総大将を務めて勝利の栄光を手にし、征夷大将軍に任じられて江戸幕府を開いたもく

幕府を開いた時には既に還暦を迎えていたけれど、将軍職を子の秀忠さんに譲った後も大御所として政治を主導し、大坂の陣で豊臣家を滅ぼすなど、亡くなる間際まで徳川の世の礎を作り続けていたもく

 

 

 

「独眼竜」の異名で知られる 伊達政宗 さんは、伊達家第十七代の当主で、幼少期に病で右目の視力を失うも不屈の精神と野心を持って奥羽の覇者となり、文化人としての足跡も多数残した隻眼の英傑もく

才能溢れる政宗さんであったけれど、家督を継いだのは織田信長さん亡き後の後継者争いともいえる小牧・長久手の戦いの頃で、戦国時代も終盤であったため、東北から関東そして天下を取るという夢は豊臣秀吉さんによって阻まれてしまうもく

それでも簡単になびくことはなく、依然として野心燻るその態度により秀吉さんに目を付けられるも、派手な行動によって危機を乗り切り、秀吉さんや諸大名からも一目置かれたもく

秀吉さん没後は徳川家康さんに接近、関ヶ原の戦いでは「百万石のお墨付き」によって東軍に与し、大坂の陣でも徳川方にて参戦し、その後の時代には仙台藩初代藩主として様々な文化を取り入れての領国開発に尽力して政治手腕を発揮すると、三代将軍・家光さんからよく慕われて幕府の政治も支えたもく

 

 

 

権力者へ抗う姿、義を貫く気立て、華々しく散る最期、判官びいきにも通じる悲劇的英雄然とした物語はいつの時代も人々の心を揺するのだろうもく

後世の物語や講談にて 真田幸村 さんの名で人気を集める真田信繁さんは、前半生については不明点が多く、豊臣秀吉さんに引き立てられて表舞台に登場し、犬伏の別れを経て父・昌幸さんと共に関ヶ原の合戦では西軍として戦ったもく

それから敗軍の将として十年以上にも及ぶ蟄居生活を送っていたが、徳川家との関係悪化により浪人を募った豊臣家に呼応して大坂に駆け付けると、大坂冬の陣では豊臣方が敗北を重ねる中で異彩を放ち、真田丸の戦いにて大いに武名を轟かせたもく

この活躍により徳川家から寝返りの誘いもあったけれど受け付けず、劣勢の豊臣方のまま大坂夏の陣に臨み、いよいよ敗戦が濃厚になると決死の覚悟で徳川家の本陣に突撃して、家康さんをあと一歩のところまで追いつめての最期になったもく

勇姿を見送った歴戦の武将達は口々に賛辞を呈し、それらが後世の人気のさらなる後押しにもなっているもく

 

 

 

上杉景勝さんに仕えて「愛」の前立付きの兜でも知られる 直江兼続 さんは、景勝さんとの二頭体制により、時に上杉家の舵取りも任されたほどの逸材もく

景勝さんとは幼少の頃に出会い才能を見出されて近習に取り立てられて、景勝さんの命により名家断絶回避のために直江家の婿養子となって名跡を継いだもく

本能寺の変後に上杉家は早くから豊臣秀吉さんに協力したため両家の関係は非常に良好となるが、兼続さんも秀吉さんから政治手腕などを高く評価されて、景勝さんが越後から会津百二十万石に加増移封された際には出羽米沢に所領が与えられているもく

秀吉さんが亡くなり豊臣政権五大老の筆頭格だった徳川家康さんが台頭すると、同じく五大老のひとりであった景勝さんを有す上杉家はそれをよしとせず関係にひずみが生まれたのだけど、その際に兼続さんが家康さんを激怒させたとも関ヶ原の戦いの遠因とも伝わる書状「直江状」を送ったといわれているもく

 

 

 

関ヶ原の戦いで西軍を指揮した 石田三成 さんは、豊臣秀吉さんの子飼いの武将のひとりとして主君の天下取りを支え、豊臣政権においては五奉行に名を連ねて主に行政を担当して手腕を振るったもく

情報収集や分析力に長けたそうで、秀吉さんとの出会いでもそれらを下地とした気遣いを気に入られたという逸話があり、その能力は秀吉さんの天下統一後の時代に一層重視されて太閤検地の実行役など政権の安定を担ったもく

忠義に厚く真っすぐな性格であったとも伝わり、秀吉さん没後に豊臣家から覇権を奪おうと動いた徳川家康さんとは必然的に敵対することになるもく

また、島左近さんの召し抱えや大谷吉継さんとの友情など人を惹きつける逸話も残る一方、組織の嫌われ役的な立場も受け持っていたため、特に豊臣政権で軍務を担った武断派とは境遇や役割の違いから徐々に対立が深まると、自身が襲撃される事件にまで発展し、後の関ヶ原の戦いの戦況にも大きな影響を及ぼすことになってしまうもく

 

 

 

大谷吉継 さんは、石田三成さんとお互いのためなら首をはねられても悔いはないというほどの友情で結ばれて、その通りの最期を迎えた義将もく

生まれについては諸説あり、豊臣秀吉さんのもとで異例の大出世をしたことから秀吉さんの隠し子説まであるみたいだけれど、実際のところは類稀な文武の才能を有したことによる出世と推測されるもく

豊臣政権においては政務を担い、同年代の三成さんとは共に文治派として切磋琢磨した仲とも考えられていて、吉継さんが容貌が変わるほどの難病を患い周囲が忌諱する中でも三成さんは変わらぬ振る舞いでいてくれたことに感銘を受けたそうもく

徳川家康さんとも親交深く、秀吉さん亡き後に家康さんが「直江状」に激怒して会津征伐を決定すると、討伐軍に参加するため出兵したもく

その道中で三成さんのもとを立ち寄った際に、家康さん打倒を持ち掛けられ、勝機なしと再三説得するも変わらぬ友の気持ちにほだされて挙兵に従い、死地となる関ヶ原の戦いには西軍として赴いたもく

 

 

 

実父・高橋紹運さん、義父・立花道雪さんという大友家の忠臣であり九州を代表する武将二人を父に持ち、関ヶ原の戦いで西軍に付いて改易された後に大名として唯一旧領復帰した名将、それが 立花宗茂 さんもく

初陣を飾った頃には大友家は衰退していたけれど、宗茂さんは劣勢を跳ね返す勢いで九州最大勢力の島津家を相手にも寡兵で踏ん張ると、豊臣秀吉さんから「その忠義と剛勇、鎮西一」と称えれて、大友家の救援要請に端を発する豊臣家の九州征伐に加わりさらなる活躍を見せたもく

その後も豊臣家の直臣となって武神のごとく戦功を重ねて、小田原征伐の際には諸大名揃う中で秀吉さんから「東の本多忠勝、西の立花宗茂、東西無双」と紹介されたとも伝わるもく

義理堅い性格であった宗茂さんは、関ヶ原の戦いでは秀吉さんへの恩義から西軍に与したけれど、まさかの短期決着によって本戦には参加できなかったもく

敗軍の将として浪人生活になるも、その力は徳川家康さんも大いに認めるところで、敵側に回ることを恐れられて御書院番頭として取り立てられると、大坂の陣では二代将軍・秀忠さんの側近に抜擢され、期待に応える功をあげて旧領復帰を果たすもく

 

 

 

戦国最強兄弟の呼び声も高い島津四兄弟、その次男として生まれた 島津義弘 さんは、中興の祖である祖父・忠良さんから「勇武英略をもって傑出する」と評された猛将もく

兄・義久さんが薩摩国内に留まり総司令官的な立場を担うと、義弘さんは戦大将を担って常に最前線に立ち続け、寡兵で大軍を打ち破るなど際立つ武功を重ねて敵軍を震撼させたもく

そんな義弘さんの数ある武勇伝の中でも有名なのが、関ヶ原の戦いでの「島津の退き口」もく

関ヶ原の戦い前の段階で徳川家康さんとは悪い仲ではなく、義弘さんも東軍に与するつもりでいたようだけれど、様々な立場の者達による思惑も絡んで西軍として参戦することになった結果、薩摩本国からの援助もなく実際に戦うこともなく撤退を余儀なくされてしまうもく

四方八方を敵に囲まれる状況で選択したのは死中に活を求めたまさかの正面突破、この時に使われた「捨て奸」は主従の信頼関係があってはじめて成功する玉砕戦術であったことから、ぼっけもん達と共に最前線で戦い続けた義弘さんだからこそ成し得た撤退戦となり、後世にも語り継がれたもく

 

 

 

  ここからは 戦国IXAの【 天 】武将としては はじめて登場する五名もく

 

 

 

今川家の調略によるお家断絶の危機に奮闘した女城主・直虎さんを養母に持ち、その庇護の下、名門再興を託されたのが 井伊直政 さんもく

父と縁浅からぬ徳川家康さんに見出され小姓として取り立てられた直政さん、容顔美麗の青年で家康さんも近くに置きたがったほどだったと伝わる一方、戦では先鋒を務めて実直な戦いぶりで功を重ねていったもく

武田家滅亡後にはその遺臣である精強な赤備え軍団を配下に付けられると、敵にも味方にも厳格な態度で徳川家内の最精鋭部隊を築き上げていき、「井伊の赤鬼」と呼ばれ恐れられるようになるもく

また、交渉術や政治手腕にも長けて、関ヶ原の戦いでは西軍寄りの立場にあった諸大名を数多く東軍に引き入れたともいわれているもく

直政さんは家康さんの天下取りにおいて多大な功績があった「徳川四天王・徳川三傑」に数えられており、子孫も代々江戸幕府重臣となったので、主君そして養母の期待に応える生涯だったもく

 

 

 

徳川秀忠 さんは、徳川家康さんの三男でその後継者として二代将軍を務めた人物もく

「秀」の字は豊臣秀吉さんから貰い受けていて、長兄の死、次兄は側室の子であったことから元より後継者として期待されていた秀忠さんだけれど、真田昌幸さん信繁さん親子に阻まれて関ヶ原の戦い本戦に遅参してしまったことで父を激怒させて、その座が危ぶまれたと伝わるもく

将軍職を継いでからも大御所として実権は父が握り、大坂の陣でも目立った活躍をすることができず、また、実子であり三代将軍として活躍する家光さんの陰にも隠れてしまいその活躍ぶりが後世で語られることは少ないもく

しかし、平和な時代にこそ力を発揮するタイプだったのか、家康さんが亡くなってからは内政面で才覚を発揮し「武家諸法度」や「禁中並公家諸法度」を制定して大名や公家、朝廷に至るまでを統制し江戸幕府の支配がより強固になるよう導き、のちの鎖国に繋がる方針を打ち出して外交面においても江戸幕府の基礎を固めるなど、泰平の世への移り変わりで大業を成していたもく

 

 

 

細川忠興 さんは、父・藤孝さんに従い織田信長さんに仕えて、信長さんの仲介によって、父の親友である明智光秀さんの娘(のちの洗礼名)ガラシャさんと結婚したもく

本能寺の変後には父と共に反明智の姿勢をいち早く示したことで豊臣秀吉さんから認められて、協力を得られること間違いなしと思っていたであろう光秀さんにとっては細川親子の決断が滅亡の決め手になったともいわれているもく

豊臣政権下では武断派の七将に数えられており、秀吉さんが亡くなると石田三成さんら文治派との派閥対立が深まるが、関ヶ原の戦い前の早い段階で徳川家康さんに接近して徳川家による利家さん亡き前田家勢力の吸収に貢献したと伝わるもく

気性の激しい性格で身内にも冷酷だったそうで、妹の嫁ぎ先を残忍な方法で攻め滅ぼしたこともあり、それに怒った妹に斬りつけられた傷が鼻に残っていたという話もあるらしいもく

一方で妻を溺愛し、父譲りの文化人としての一面も知られており、武具への造詣も深く「肥後拵」などを創作し、茶人としては「利休七哲」にも数えられたもく

 

 

 

徳川家康さんの母方のいとこである 水野勝成 さんは、誰にも縛ることが出来ない傾奇者で「倫魁不羈」と称された異端の将もく

とにかく豪胆で、自ら先頭に立って突撃し一番槍をあげたこと数知れず、その気概は例え大将であろうと年齢を重ねようと変わることはなかったと伝わるもく

若い頃には血気盛んなあまり問題を起こすこともしばしばで、父親と喧嘩の末に奉公構にされて十五年も浪人生活を送ることになるもく

浪人中には全国を放浪して名のある大名に仕えては出奔することを繰り返して苦労も多かったけれど、確かな戦の腕前によって何度も召し抱えられたもく

関ヶ原の戦い前に家康さんに仕えてからは徳川家臣として生涯を全し、後年に任された初代福山藩主時代には生来の破天荒さと浪人生活での経験を基にした人間力で、家臣からも領民からも慕われる藩主として活躍をしたもく

 

 

 

山内一豊 さんは、口数少なく穏和で派手な戦功はないけれど、槍の腕前と愚直なまでの勤勉さで時の天下人達から評価されて、放浪の身から一国の主へと出世を遂げた偉人もく

青年期に織田家の内紛に巻き込まれる形で放浪生活となり、まだ織田信長さんの配下だった頃の豊臣秀吉さんに仕えて織田家の戦いに参加すると、朝倉家の滅亡を決定付けた刀禰坂の戦いの活躍により出世の第一歩を踏み出したもく

本能寺の変後も秀吉さんに従い、天下統一に向けて続く戦いで堅実に働き出世を重ね、戦略拠点として重要な掛川城に配置されるなど主君からの信頼も得ていたもく

秀吉さんが亡くなると早くから次の覇者は徳川家康さんだという姿勢を示して、諸大名達が徳川方に付く流れを作ったともいわれ、そういった功もあって関ヶ原の戦い後にはついに土佐一国を与えられるに至ったもく

また、一豊さんを語るうえで外せないのは妻・千代さんの存在で、内助の功が立身出世を度々後押ししたとも伝わるもく

 

 

 

なお

徳川家康【 傑 】 伊達政宗【 天 】真田幸村【 天 】 については

取引出品・譲与不可とのこともく

 

 

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今回の【傑】【天】武将カード追加時に

下記の

【傑】武将カードは 全てのくじから
【天】武将カードは 一部くじより 排出停止とのこともく

 

 

 

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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