こんにちは~~~のろしですもく ヽ(^ε^)ゞ
新たなる舞台が開幕して一ヶ月ちかく経ったけれど
新しい同盟員や新しい武将カードなどとの素敵な出会いはあったかなもく?
まだまだ新しい舞台が始まったばかりの 戦国IXA ですが
またまた新しい武将たちが追加されるもくよっ (● ´ ε ` ●)
9月 の 追加武将 が 公開されました もく
追加されるのは
【 極 】 蜂須賀至鎮さん 本庄繁長さん 風魔小太郎さん 織田有楽斎さん
【 特 】 京極高知さん 御宿勘兵衛さん 内藤ジュリアさん
【 上 】 安倍元真さん
【 序 】 両角虎定さん
以上の 9 名
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取引出品・譲与不可で
2023年12月予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく
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蜂須賀家の家祖である蜂須賀小六さんは若き日の豊臣秀吉さんを支えて家運をひらき、小六さんの嫡男である蜂須賀家政さんもまた秀吉さんに仕えて武功を重ね、阿波一国を与えられたもく
家政さんの嫡男 蜂須賀至鎮 さんも幼い頃から秀吉さんに仕えたけれど、秀吉さんの死後、家政さんは徳川家康さんの養女を至鎮さんの正室に迎え、徳川家と親密な関係を築いていったもく
関ヶ原の戦いにおいては、病を理由に家政さんが旗幟不鮮明な態度を見せる一方で、至鎮さんが東軍として関ヶ原での本戦に参加したため、戦後、蜂須賀家は家康さんから所領を安堵され、家政さんは至鎮さんに家督を譲って隠居したもく
大坂の陣でも徳川方として手柄を立てて淡路国を加増された至鎮さんは、塩田開発や非常時の食料確保、吉野川の治水工事などに注力し、名君として領民から慕われたけれど、元来病弱な体質だったといわれ、享年三十五という若さでこの世を去ったもく
揚北衆(越後北部の有力国人)のひとりである本庄房長さんの子としてうまれた 本庄繁長 さんは、父の十三回忌に父の仇である小川長資さんを捕縛して自害させ、若年ながら見事に本庄家の実権を取り戻し、「気性剛強で勇猛」と評されたもく
ほどなく元服した繁長さんは上杉謙信さんに従ったと考えられるけれど、揚北衆は独立傾向が強く、味方になったかと思えば敵になったりと、完全な従属の関係であったとはいえず、上杉家とのあいだで「本庄繁長の乱」と呼ばれる大規模な戦いまで繰り広げたもく
しかし、この戦い以後は上杉家に臣従したとみられ、謙信さんの没後は上杉景勝さんに仕えたもく
繁長さんは関ヶ原の戦いにおいて、景勝さんの指示により福島城に入り、伊達家の攻撃から城を守り抜く活躍を見せたけれど、その後おこなわれた軍議では、早期講和を主張し、景勝さんから上洛して終戦工作にあたるよう命じられたもく
「越後に鬼神あり」とまで称された繁長さんの奔走により、上杉家は減封はされたものの存続を許され、景勝さんは繁長さんの没後にその武勇を称えて「武人八幡」の称号を与えたもく
北条家に仕えて活躍したとされる風魔一党は 風魔小太郎 さんを頭領とする忍びの集団であるけれど、一般的に想い描かれる忍びとは異なる点も多く、風魔一党に関して、山賊、海賊、強盗、窃盗の類であるという古い記述もあり、忍びというより無法者に近い集団だったのかもしれないもく
武蔵国河越城をめぐる合戦では、風魔一党の忍びが敵軍の陣営に潜入して探索をおこない、敵軍の布陣や兵の士気などをこまかく報告したといわれているもく
風魔一党の報告により詳細な敵情を得た北条軍は、大軍勢に対して夜襲を仕掛けて勝利をおさめ、「河越夜戦」と呼ばれるこの夜襲は「日本三大奇襲」のひとつに数えられているもく
敵の中に紛れ込むことを得意とした風魔一党は、逆に自分たちの中に敵が紛れ込んだ場合には、一斉に立ち上がったりしゃがんだりする敵味方識別法を用いて敵をあぶり出すことができたといわれているもく
織田信長さんの弟である 織田有楽斎 さんは、本能寺の変のあと、小牧・長久手の戦いでは織田信雄さんに仕えていたため羽柴秀吉さんに敵対する恰好になったけれど、豊臣政権下においては家来筋の秀吉さんに御伽衆として仕え、関ヶ原の戦いがおこれば東軍に与するなど、時勢に対して柔軟に応じ、戦国の世を生き抜いたもく
千利休さんに茶道を学んだ有楽斎さんは利休十哲のひとりに数えられるほどの茶人で、「有楽流」と呼ばれる武家茶道を確立したもく
「有楽の茶は、客をもてなすをもって本義となす」という評が伝わっており、有楽斎さんはその茶風の集大成ともいえる茶室「如庵」を京都建仁寺正伝院の院内に建て、現在この茶室は愛知県犬山市に移築され、国宝に指定されているもく
南北朝時代から近江に割拠した名門京極家にうまれた 京極高知 さんは、京極高次さんを兄に持ち、自身は妻の父である毛利秀頼さんの遺領を相続して、信濃国飯田城主となり六万石を領したもく
領内でのキリスト教の布教を許可し、のちに自身もキリシタンとなった高知さんは、関ヶ原の戦いで東軍に味方して戦功を挙げ、戦後、丹後一国を与えられて国持大名となると、熱心なキリシタンである母の京極マリアさんを領内の泉源寺村に住まわせて、キリスト教の弾圧から母を守ったもく
丹後藩初代藩主となった高知さんは、のちに領地を、宮津藩、田辺藩、峰山藩と三分割して、それぞれを嫡男、三男、婿養子の三人に相続させたもく
また、高知さんは「灯台切」という刀を差料としており、この刀は三男の京極高三さんに与えられたもく
御宿勘兵衛 さんは、武田信玄さんの侍医を務めた御宿友綱さんの子、あるいは信玄さんの孫など諸説ある人物もく
武田家滅亡後は北条家に仕え、北条家が滅亡すると徳川家に仕えて、結城秀康さんの下で活躍したもく
秀康さんが亡くなると跡継ぎの松平忠直さんに従ったけれど、忠直さんと不和になり出奔、浪人生活ののちに豊臣方として大坂の陣に参戦したため、忠直さんが激怒して勘兵衛さんに懸賞金を掛けたとも伝わるもく
それでも大坂夏の陣末期、大勢が決しようかという間際に最期を悟った勘兵衛さんが、忠直さんに秘蔵の馬荒波を拝領して戦地を駆けたいと申し出た際にはその願いが受け入れられたそうで、また、開戦当初には徳川家康さんが豊臣方の浪人衆の中で武者らしいのは後藤又兵衛さんと勘兵衛さんだけだと評したともいわれ、武将として誉れ高かった様子がうかがえるもく
内藤ジュリア さんは、松永久秀さんの弟である松永長頼さんが父で、キリシタン武将として知られる内藤如安さんが兄という家に生まれたもく
若くして結婚したあと、夫と死別してしまったため仏門に入っていたのだけれど、兄の仲介もあってキリスト教に改宗してジュリアと名乗るようになったもく
それからは熱心に布教活動に励み、大名夫人らを改宗させたり、日本で初めての女子修道会ベアタス会を京都に設立するなどしたもく
江戸幕府のキリシタン追放令で兄達とともにマニラへ追放されてしまったけれど、その地で最期まで布教活動に身を捧げたと伝わるもく
今川義元さんから偏諱を賜った 安倍元真 さんは、今川家、徳川家に仕えて武田家と戦いつづけた武将もく
桶狭間の戦い後の今川家弱体の機を狙い武田信玄さんが駿河へ侵攻してくると、元真さんは今川家の重臣岡部正綱さんらと協力して防戦にあたり激しく抵抗したもく
その様子を見た信玄さんは和睦を提案し、正綱さんは武田家に降ったけれど、元真さんは勧誘を拒否して抗戦をつづけたもく
一時は自領を奪われるなど窮地に陥るも徳川家の支援を受けて奪還、戦国大名としての今川家が滅亡すると正式に徳川家に仕え、高齢になっても戦場で活躍し、武田家の滅亡を見届けて引退したもく
両角虎定 さんは、出自など前半生については確かな史料が乏しく不明点が多いようだけど、武田信玄さんの曾祖父信昌さんの子ではないかという説もあるらしいもく
いずれにせよ、信玄さんの父信虎さんの時代には五十騎持ちの侍大将を担い、飯富虎昌さんなどと並び賞賛されたと伝わるもく
信玄さんの代になっても家内の重臣として活躍しており、信玄さんの弟信繁さんの傅役も務めたとされるもく
第四次川中島の戦いに八十一歳で出陣し、信玄さんの危機を救うために信繁さんが討死したことを知ると、ここを死に場所と決めたのか、わずかな手勢で敵陣に突入しての最期になったもく
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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく
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