待ちに待った食欲の秋は いっぱいもぐもぐタイムすること
どこかのかわいい煙の妖怪の如しもくっ
モグモグモグ((●´)з`))) モグモグモグ
こんにちは~ うわさの煙の妖怪 のろしもく
季節の変わり目 衣替えということで
戦国IXAでも 武将カードの入れ替えのようですもく
10月 の 追加武将 が 公開されました もく
追加されるのは
【 極 】 酒井忠次さん 伊達稙宗さん 長連龍さん 永田徳本さん
【 上 】 浅利信種さん
【 序 】 赤松広通さん
以上の 9 名と
「 武田四天王 」とも呼ばれる
以上の 4 名 が それぞれ【 天 】で登場するとのこともく
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高坂昌信【 天 】、内藤昌豊【 天 】、山県昌景【 天 】、馬場信房【 天 】
長連龍【 極 】、永田徳本【 極 】は
取引出品・譲与不可で
2024年1月予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく
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武田四天王は出自に関わらず信玄さんに見出され、それぞれが名家の名跡を与えられて出世を果たし、武田家の最盛期を支えた名将達もく
高坂昌信 さんは、美童だったため信玄さんに見染められたとも言われており、百姓の生まれでありながら近習に召抱えられたもく
武将としての英才教育を施されて成長すると、対上杉家の最前線である海津城を任され川中島の戦いで活躍したもく
冷静沈着な判断や、撤退戦の指揮に優れたことから「逃げ弾正」の異名を持った昌信さんだけれど、武田家の有力家臣の多くが散った長篠の戦いには留守役のため参加できず、四天王で唯一の生き残りになったもく
史料としての信憑性については議論もあるものの、現代人がイメージする武田家像の形成に影響が大きい「甲陽軍鑑」は、昌信さんの口述記録が原本だったともいわれるもく
武田信虎さんの重臣であった工藤虎豊さんの次男に生まれた 内藤昌豊 さんは、父が信虎さんとの対立で殺されてしまったため、甲斐を脱出してしばらく諸国を転々としたそうもく
信玄さんによる信虎さん追放からの武田家代替わりを機に呼び戻されると、父の代でのことの申し訳なさもあったのか信玄さんは昌豊さんをよく目に掛けたみたいもく
昌豊さんもまたその期待に応えるべく、信玄さんの主要な戦いほぼ全てに参加して常に数多くの武功を立てて、武田家内での地位を築き上げていったもく
そんな昌豊さんに対して信玄さんは一度も感状を与えなかったそうだけど、それは昌豊さんほどの者であれば常人を抜く働きがあるのは当たり前という理由だったようで、また、同じ四天王の山県昌景さんは昌豊さんこそ真の副将と称えたとも伝わり、それほど優秀な武将であったことがうかがえるもく
山県昌景 さんは、出自については諸説あり武田家の宿老を務めた飯富虎昌さんの弟あるいは甥といわれ、はじめ信玄さんの近習として仕えたもく
信玄さんの嫡子の武田義信さんの謀反に加担したことにより虎昌さんが自害となり、飯富家も断絶となったため、昌景さんは後継者のなかった名家・山県の名跡を与えられて、虎昌さんの「赤備え」部隊も引き継いだもく
昌景さん率いる部隊の活躍は目覚ましく、次第に他国にも知れ渡るようになっていくと、織田・徳川連合軍に圧勝した三方ヶ原の戦いでは家康さんに強烈なトラウマを植え付けるなど、敵軍から畏怖の対象とされるまでに至ったもく
昌景さんは長篠の戦いで討死となったけれど、敵方の「信長公記」には討ち取った首の筆頭にその名が記されており、また、後に武田遺臣を率いた井伊直政さんが「赤備え」を継承したことなどから、昌景さんの「赤備え」部隊は戦国最強武田軍を象徴する存在だったと考える人も多いみたいもく
信虎さんの時代から武田家に仕えて、四天王の中で一番年上だった 馬場信房 さんは、信玄さんの初陣にも参加し早い時期から評価を得ていたようで、信玄さんに物怖じせずに意見できる人物だったと伝わるもく
信玄さんによる信虎さん追放に貢献し、信玄さんが当主になると名家・馬場の名跡を与えられて、その後は内政外政両面で活躍を重ねる現場叩き上げで出世していったもく
生涯七十を超える合戦に出陣しながらも、かすり傷ひとつ負わなかったことから「不死身の鬼美濃」と評されており、屈強な武田軍を代表する猛将ぶりは最期となった長篠の戦いでも遺憾なく発揮されていたそうもく
信玄さん急死後であり、歴史の転換点のひとつともいわれる戦いにおいて武田軍が総崩れになる中、未だに無傷であった信房さんはしんがりを務め、大将だった武田勝頼さんが無事戦場を脱出したことを見届けると、追撃してくる織田軍に突入して、敵方からもその働き比類なしと評される壮絶な散り際となったもく
酒井忠次 さんは、徳川四天王や徳川十六神将の筆頭として語られることも多い、徳川家草創期の重臣もく
家康さんの父・松平広忠さんの時代から仕え、家康さんが今川家の人質で駿府に赴く際には同行し、心の拠り所や傳役を担って幼い家康さんの支えになったもく
家康さんが独立すると家老として連なる主要な戦いに参加し数多くの功をあげ、その戦働きぶりを織田信長さんも高く評価していたといわれるもく
また、家臣団のまとめ役としての奮闘も数知れず、今年の大河ドラマでも何度も披露された「海老すくい」の踊りで場を盛り上げたり、三方ヶ原の戦いの敗戦で家康さんが浜松城に逃げ帰った際に、城の櫓上にて太鼓を打ち鳴らして味方を鼓舞した「酒井の太鼓」などの逸話が伝わっているもく
伊達稙宗 さんは、政宗さんの曾祖父であり三代前となる伊達家代当主だった人物もく
稙宗さんの時代の奥州は、大崎家が地域を統括する奥州探題を世襲していたものの、伊達家、蘆名家など有力国人が各自で領国支配する割拠の状況であったもく
その中で奥州支配を目論んだ稙宗さんは、将軍足利義稙さんに多額の贈答品を送るなど中央との結びつきを強め、さらには十四男七女の子供達の政略結婚や養子縁組を通じて他勢力を巧みに取り込み勢力を拡大させたもく
そして陸奥では置かれていなかった守護職に補任されると、大崎家をも婚姻関係によって支配下とすることに成功し、伊達家は名実ともに奥州最大勢力となったもく
ところが、外交に重きを置きすぎた反動か、嫡男の晴宗さんを中心とする内紛・天文の乱を招くことになってしまい、伊達家は一時衰退することになるもく
能登畠山家の重臣であった長続連さんの子に生まれた 長連龍 さんは、嫡男でなかったことから仏門に入ったものの、法衣姿で戦場に出て多くの首級をあげていたとも伝わる武勇の士もく
当時の能登畠山家は当主の死が相次ぎ、続連さんをはじめとする重臣たちの傀儡政権状態になっていたのだけど、そこに越後の上杉謙信さんが侵攻してきたため、織田信長さんへの救援要請の使者に連龍さんが抜擢されたもく
しかし、連龍さんが救援要請に出ているときに、続連さん以外の他の重臣達が寝返り、長一族は皆殺しにされてしまったもく
連龍さんはそのまま織田家配下となって機を待ち、復讐の炎を燃やし続けて一族の仇である寝返った重臣達を次々と討っていくことになるもく
武田信虎さん信玄さん親子の侍医を務めたとされる 永田徳本 さんは、戦国時代の名医のひとりで、「薬草の大家」、「医聖」などと称されるもく
武田家が滅亡すると牛にまたがって諸国を巡り、貧しい人々に無料で薬を与えたり安価で診療を行い、庶民の医療に貢献していたと伝わるもく
どんな診療であってもどんな身分の相手であっても、十六文あるいは十八文ともいわれるわずかな金額以上の報酬をもらうことはなかったそうで、二代将軍徳川秀忠さんの大病を治した際にもそれは変わらなかったんだってもく
ところで、信虎さんから秀忠さんの時代までって随分と活躍期間が長いなぁと思ったら、なんと百十八歳!?まで長生きされたらしいもく
老中主席も担った 松平信綱 さんは、柳生宗矩さん、春日局さんと共に三代将軍徳川家光さんを支えた「鼎の脚」のひとりに数えられており、幕藩体制を完成させたという評価もある人物もく
代官の家に生まれたけれど、幼年にしてその出自のままでは出世が難しいと悟り、叔父である松平正綱さんが松平家の養子となり家康さんの近臣となっていたことから、出世のためにその養子となるのを望んだそうもく
願いが叶い松平姓になり、家康さんとの謁見機会も得て、家光さんが誕生するとその小姓に任じられたもく
とにかく頭が切れたという信綱さんの逸話は数多く伝わっており、その積み重ねにより家光さんの側近としての信頼を盤石なものとしていき、伊豆守に任官されたことや知恵がどんどん出てくることから「知恵伊豆」とも称されたもく
家光さんが亡くなった後も四代将軍家綱さんを補佐して、引き続き政治手腕を発揮したと伝わるもく
信玄さんの嫡男として生まれた 武田義信 さんは、今川義元さんの娘を正室に迎え、将軍足利義輝さんから武田家では初めての「義」の字の偏諱を受けるなど、信玄さんの後継者として嘱望されていたもく
初陣から派手な戦果をあげて、対上杉家との争いで有名な川中島の戦いでも大活躍をし、一説では謙信さんの本陣を急襲して謙信さんをひやりとさせる場面もあったともいわれているもく
しかし、そんな順風満帆な状況は突如一変し、「義信事件」ともいわれる信玄さん暗殺を企てた謀反計画に関与したとして義信さんは東光寺に幽閉されて、そのまま自害へと追い込まれてしまったもく
「義信事件」については、傳役だった飯富虎昌さんら重臣達主導の派閥闘争に巻き込まれた、あるいは今川義元さんの娘を正室としていた義信さん自身が、桶狭間合戦後に今川家との同盟関係を手切とする方針転換をした信玄さんをこころよく思っていなかったなど、複数の要因が推測されており現在でも議論されているもく
桂岩院 さんは、権大納言を歴任し正二位に叙された四辻公遠さんの娘で、上杉景勝さんの側室になり、出羽国米沢藩の二代藩主となる定勝さんを生んだもく
産後三か月ほどで亡くなってしまったため人となりなどはほとんど伝わっておらず、景勝さんの側室になった経緯についてもはっきりとはわかっていないらしいもく
景勝さんには正室の菊姫さんがいたのだけど、上杉家臣からの信頼を集めていた菊姫さんを差し置き、ぽっと出のような側室を寵愛したことをよく思わなかった家臣もいたそうで、桂岩院さんはあまり家臣達から歓迎されていなかったという俗説もあるらしいもく
ただ、菊姫さんとの間では実子がいなかったため、上杉家断絶を心配して重臣の直江兼続さんが側室をすすめたともいわれ、四辻家も菊姫さんの実家である武田家と縁が深いということもあり、桂岩院さんとの婚姻はしっかりと考えられたうえでのものという説が有力みたいもく
浅利信種 さんは、武田家の庶流であり甲斐国八代郡浅利郷を本拠とした浅利一族の出自で、武田信玄さんに仕えた武将もく
信種さん自身が史料に登場するのは、信玄さんの嫡子の義信さんが自害となった「義信事件」の頃からわずか数年のみのため、人物像については謎も多いみたいもく
そのため他の武田家の著名な武将ほど知名度はないものの、「甲陽軍鑑」によれば信種さんは騎馬百二十騎という主力級の部隊を率いたそうで、名前の「信」の字についても信玄さんの偏諱を受けたものと推測すると、家内でもかなり上の立場にあったと考察されているもく
今川家との手切によって北条家との三国同盟も破綻となった武田家は、上野国に侵攻し、信種さんは関東方面の責任者として箕輪城の城代に着任したけれど、その後の北条家との戦いの中で戦死したもく
赤松広通 さんは、室町幕府の四職家のひとつで守護職経験者も複数輩出している名門・赤松家の庶流に生まれて、播磨龍野城主や但馬竹田城主を務めたもく
広通さんが当主となった頃は織田信長さんの勢いが著しかった時期で、広通さんも信長さんに従うことを選び、龍野城を明け渡して羽柴秀吉さんの重臣・蜂須賀正勝さんの与力として活動したもく
秀吉さんが天下を狙う時代に入ると、四国征伐での功により竹田城を与えられて秀吉さんの直臣になり、宇喜多秀家さんの妹を正室に迎えたもく
好学の人だったようで、播磨国出身の大物儒学者・藤原惺窩さんや、文禄の役の捕虜として日本に連れてこられた朝鮮の高官・姜沆さんと積極的に交流したと伝わるもく
また、名刀として名高い「獅子王」を所有していたことも知られているもく
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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく
また 9月に
「13周年×まだまだ熱い夏」をテーマとして新イラストで登場した姫達の武将カードも
今回の武将追加時にラインナップから外れるとのこともく
https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n651be9baf3a93
「金くじ・琥珀くじのラインナップ更新について」のお知らせも掲載されていますもく
https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n65155076f365a
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