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【戦国IXA】12 月の追加武将一覧

|ョ・з・)こ|ョ・з・)ん|ョ・з・)に|ョ・з・)ち|ョ・з・)は|ョ^з^)のろしもく

 

2021年も いよいよ12月だねぇもく

まだ1か月ほどあるとはいえ

年末年始の独特な雰囲気も近づいてきましたという感じですなぁもく

 

そんな師走の始まりに 戦国IXAでは こちらのみなさんが新登場!

 

 12 追加武将 公開されました もく

 

追加されるのは

【 極 】 九戸政実さん 甲斐姫さん 小野和泉さん 愛洲移香斎さん

【 特 】 本多政重さん 柳生宗章さん 真田昌輝さん

【 上 】 葛西晴信さん 

【 序 】 木造長政さん

以上の 9 名 

 

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小野和泉【 極 】、愛洲移香斎【 極 】

取引出品・譲与不可で

2022年3月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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九戸家は北奥羽・南部家の分家で、九戸政実さんは武将として大変優れ、南部晴政さんの時代に安東家との戦いなどで活躍して本家の最盛期を支えたもく

最有力勢力として南部家と対等な関係であったともいわれるが、晴政さんとその実子の相次ぐ死によって南部家の後継者争いが起こり、政実さんと南部家の養嗣子であった信直さんが対立したもく

豊臣秀吉さんの奥州仕置後もこの関係は変わらず、挙兵した政実さんに苦戦する信直さんは、本家が南部家の後継者であると公認を出していた秀吉さんに援軍を請うたもく

こうして秀吉さんとの対立も生まれ、これに奥州各地に燻っていた反豊臣勢力の決起も呼応し「九戸政実の乱」と呼ばれる反乱となり、政実さんの名は天下統一直前の秀吉さんが最後に戦った相手として後世に伝わることとなったもく

 

 

 

甲斐姫さんは、忍城主の成田氏長さんの長女で、東国無双と評された美貌と、男子であれば成田家を中興させて天下に名を成すとまでいわれるほどの武芸を兼ね備えた姫君もく

その活躍として有名なのが、秀吉さんの小田原征伐において唯一陥落せず、石田三成さんによる水攻めにも耐えた忍城の戦いで、総大将となったのぼう様こと成田長親さんと共に兵を鼓舞し、時には成田家に伝わる名刀「浪切」を携え自ら出陣するなど秀吉軍に大いに抗ったもく

北条家が敗れたため忍城も開城、成田家は蒲生氏郷さんの預かりとなり、甲斐姫さんは氏郷さんの移封に伴い会津に移った後、その美貌や武勇伝を聞いた秀吉さんによって側室に迎えられ大坂城に移り住んだそうもく

秀吉さんの側室となってからの生活については定かとなるような話はあまり伝わっていないが、秀吉さんの晩年まで側にいたと考えられ、秀頼さんともかなり近い関係にあったのではという説もあるらしいもく

 

 

 

小野鎮幸さんの名でも知られる小野和泉さんは、立花道雪さん・宗茂さんに仕え、戦いは正攻法ではじめ型破りな奇法で最終的な勝利をおさめるという孫子兵法「奇正相生」からの引用で、正の将と呼ばれた由布雪下さんと共に奇の将として「立花双翼」と称されたもく

智勇兼備の武将だったと伝わり、生涯に大戦だけでも二十二度参加し、全身には六十を超える戦傷を負いながらも武功を挙げ続け、大友家・立花家から合計六十八枚もの感状を受けたそうもく

また、立花家が豊臣家直臣となった後の文禄・慶長の役でも活躍し、秀吉さんから日本七槍の筆頭だと評されたもく

関ヶ原の戦いで立花家は西軍に付いたため改易されて加藤清正さんの預かりとなり、宗茂さんも浪人生活を送る中、和泉さんは立花家家臣団のまとめ役として肥後に残って尽力し加藤家内でも一目置かれたが、立花家が西軍大名で唯一の旧領復帰を果たすのを見届ける前に世を去ったもく

 

 

 

生来剣術を得意とし、兵法三大源流のひとつ「陰流」を創始した人物といわれるのが愛洲移香斎さんもく

愛洲家は元々熊野水軍に属した一党だそうで、移香斎さんの時代にも海外貿易や海賊のようなことを生業としていたため、幼少の頃より周囲には様々な刺激があったみたいもく

そうした環境にも触発されたのか若くして武者修行で全国を巡ると、日向の鵜戸の海に面した神秘的な洞窟で影を相手にした修業の際、霊験によって開眼し新たな剣術を取得したそうもく

これを「陰流」と名付け全国に広めると、後に剣聖・上泉信綱さんがさらに発展させて生み出したのが「新陰流」との説もあるため、「陰流」は信綱さんの弟子がつくった「柳生新陰流」の源流でもあるといわれているもく

 

 

 

何度も出奔し有名大名家を転々としながらも、加賀八家最高の五万石の禄高を拝領し、加賀本多家の初代として藩を支えたのが本多政重さんもく

政重さんは、徳川家康さんの重臣江戸幕府老中も務めることになる正信さんの次男として生まれたが養子に出され、そこでの悶着によって出奔、大谷吉継さんに仕えた後、関ヶ原の戦いには宇喜多秀家さんの家臣として参加したが西軍は敗北、しかし正信さんの息子ということもあってか罪には問われなかったもく

そして福島正則さんのもと、前田利長さんのもとを渡り歩き、直江兼続さんに乞われ婿養子として迎えられたがここも離れて、藤堂高虎さんの取りなしによって前田家に帰参したもく

こうした経歴となったのは、各大名が徳川家の力を意識し様々な思惑が働いた、あるいは徳川家からの密命があったのではないかと考えられているもく

一方で、各所を離れた時期や背景から義を重んじる政重さん自身の人となりによるものという捉え方もあり、政重さんが前田家に帰参する際には多くの直江家家臣も従い、帰参後には前田家の窮地を救う活躍で初期の加賀藩政を支える役割を担うなど傑物としての様子もうかがえるもく

 

 

  

柳生宗章さんは、「柳生新陰流」の祖にあたる石舟斎さんの四男で、父によって弟の宗矩さんと共に徳川家康さんの剣術指南役に推挙されたが、受けずに武者修行へ出たもく

やがて小早川秀秋さんに召抱えられて関ヶ原の戦いではその警護にあたったが西軍敗北により小早川家が改易されると、米子藩主・中村家家老の横田村詮さんに誘われ客将として厚遇されたもく

しかし村詮さんは同僚からの出世争いの妬みによって謀殺されてしまうもく

これに憤った宗章さんは反抗に出ていた横田家勢に加勢、吹雪の中で数本の刀を差して鎮圧軍十八名を切り倒すなど刀が全て折れるまで戦い続け壮絶な最期を迎えるが、その暴れっぷりにより「柳生新陰流」の実戦でも際立つ強力さが世に知れ渡ることとなったもく

 

 

 

真田昌輝さんは、武田信玄さんの重臣であった幸隆さんの次男で、兄に信綱さん、弟に昌幸さんや信尹さんらをもつもく

父が信玄さんに仕えるようになった頃、自身も信玄さんの小姓として召し抱えられ、武田家の伝令部隊ともいわれる百足衆にも抜擢されたもく

成長すると信州先方衆の副将格として大将である兄をよく補佐し共に各地を転戦したそうだが、一説では信玄さんから真田本家二百騎とは別の五十騎を預かることを許されて単独でも活躍していたそうもく

勝頼さんの時代になっても兄弟は変わらぬ勇猛さを見せていたが、長篠の戦いにて織田陣営に果敢に突撃、あるいはその撤退戦にて殿を担い、兄と共に戦死したと伝わるもく

 

 

 

葛西晴信さんは、奥州にて鎌倉時代から続く名門の最後の当主となってしまった人物もく

源頼朝さんにより奥州藤原家が滅ぼされ、その戦いの武功によって葛西家が陸奥国の統治を任されたことで奥州での歴史が始まり、周辺勢力との数多くの抗争や内紛による分裂など紆余曲折を経たが、晴信さんの父が当主を務めた時代においても奥州の有力戦国大名のひとつとして地位を保っていたもく

父が亡くなり兄が家督を継ぐも直ぐに病死してしまったので晴信さんが当主となったが、隣国の大崎家との争いや各地の反乱などの渦中であったため、伊達家と結んで解決の糸口を探ったもく

しかし混乱は収まらず、そのため豊臣秀吉さんの小田原征伐にも参陣ができなかったことで奥州仕置によって改易されてしまったもく

その後については諸国を放浪したとも、秀吉軍に徹底抗戦し戦死したともいわれるが確かなことはわからないらしいもく

 

 

 

木造長政さんの生まれは伊勢・北畠家の分家であったが、織田信長さんの伊勢侵攻の折、父が織田家への協力を選択し、自身も信長さんの息子で北畠家の養嗣子となった信雄さんに仕えることになったもく

信長さん没後の複雑な後継者争いに関係して信雄さん陣営と羽柴秀吉さん陣営が争った小牧・長久手の戦いによって信雄さんが改易されると、長政さんは信長さんの孫である秀信さんに家老として仕えたもく

関ヶ原の戦いでは秀信さんに東軍に付くよう進言したが聞き入れてもらえなかったため西軍に与し奮戦、相対した敵将の福島正則さんから評価されると戦後には福島家に招かれ仕えるようになったと伝わるもく

 

 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】11 月の追加武将一覧

(oゝз・)ノ こんちゃ!のろしもく!

 

食べ物がおいしい季節こと「冬」が

もうそこまで来てる今日このごろ

 

 戦国IXA では

 11月 追加武将 公開されました もく

 

 

追加されるのは

【 極 】 馬場信房さん 内藤昌豊さん 宮本武蔵さん 悪景政さん

【 特 】 石川昭光さん 飯田覚兵衛さん 糸姫さん

【 上 】 丸毛兼利さん 

【 序 】 天草久種さん

以上の 9 名 

 

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馬場信房【 極 】、宮本武蔵【 極 】、悪景政【 極 】は
2022年2月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

 

宮本武蔵【 極 】、悪景政【 極 】は 取引出品・譲与不可とのこともく

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馬場信房さんは、武田三代に仕えた重臣で、戦国最強といわれる武田軍の中枢をになった人物もく

武田信玄さんが駿河国に侵攻した際、今川家の財宝が焼失するのを惜しんだ信玄さんは、家臣たちに館から財宝を運び出すよう命じたけれど、信房さんは「信玄公が貪欲な武将として後世の物笑いになる」といって、火中に財宝を投げ込んだといわれているもく

これに対し信玄さんは、怒るどころか、財宝よりも武田家の武名を惜しんだ信房さんの器量に感服したと伝わっており、信房さんが信玄さんの行動を諌めることができる存在だったことがうかがえるもく

そんな信房さんは武田三代のもとで数多くの戦に参加したけれど、長篠の戦いで戦死するまで、かすり傷ひとつ負ったことがなく、「不死身の鬼美濃」と称され、長篠の戦いでも織田方から「馬場美濃守の働き、比類なし」と評される最期だったと伝わっているもく

 

 

 

馬場信房さん、山県昌景さん、高坂昌信さんとともに武田四天王のひとりに数えられる内藤昌豊さんは、武田信玄さんの側近として、戦国最強の武田軍を支えた人物もく

信玄さんの弟である武田信繁さんとともに武田家の副将格と評され、その武勇が他家にまで轟いていた昌豊さんは、合戦での働きも抜群で、数多くの武功を挙げていたもく

それにも関わらず、昌豊さんは信玄さんから一度も感状をもらったことがないといわれており、その理由として信玄さんは、「昌豊ほどの弓取りであれば、常人を抜く働きがあってしかるべし」と語ったといい、また昌豊さんも「合戦は大将の軍配によって勝利を得るもので、いたずらに個人の手柄にこだわることなど小さなこと」と、感状をもらっていないことなど気にしていなかったんだってもく

 

 

 

巌流島で佐々木小次郎さんと決闘したことで有名な剣豪宮本武蔵さんは、六十余度の勝負に一度も負けたことがなかったといわれているもく

その前半生には不明な部分も多くあるけれど、大坂の陣では、徳川方の大名のもとに客将として参陣したという記録がのこっていて、その後も姫路藩小倉藩などに客分として招かれたもく

その晩年は肥後熊本藩に客分として招かれ、藩主細川忠利さんの求めに応じて「二天一流」の心得などをまとめた「兵法三十五箇条」を著したといわれているもく

 

 

 

悪小次郎の名でも知られる悪景政さんは、毛利家の鉄砲隊に所属していたといわれる鉄砲の名手もく

その出自については詳しい記録がのこっておらず謎に包まれているけれど、鉄砲の腕はたしかで、毛利元就さんの軍勢が大友家の立花城を攻略した戦いでは、市川久栄さんや岡元良さんらとともに鉄砲で大活躍し、つづく多々良浜の戦いでも敵三人を撃ち倒すなどの活躍を見せたもく

その後も従軍した合戦で武功を重ね、元就さんから「比類なき武功」と賞賛する言葉を賜ったもく

出自同様、その晩年についてもよくわかっていない景政さんだけど、子孫はその後も毛利家に仕えたと伝わっているもく

 

 

 

伊達晴宗さんの四男としてうまれた石川昭光さんは、伊達輝宗さんの弟にあたる人物で、陸奥国石川郡三芦城主である石川晴光さんの養嗣子となったもく

晴光さんの跡を継いだ昭光さんは、蘆名家や佐竹家などが割拠する奥州の複雑な情勢のなかで、次第に生家である伊達家と対立するようになっていったけれど、甥の伊達政宗さんが摺上原の戦いで蘆名家を下すと、昭光さんも伊達家に降伏したもく

伊達家に仕えた昭光さんは一万二千石を与えられ、その後の石川家は伊達家臣の最上位である「一門」の筆頭として江戸時代の伊達家を支えたもく

 

 

 

飯田覚兵衛さんは若い頃から加藤清正さんに仕え、生涯にわたって清正さんを支えた人物で、加藤十六将や加藤家三傑のひとりに数えられているもく

槍術の達人であり日本槍柱七本にのひとりでもあるもく

また、文禄・慶長の役では亀甲車という装甲車を開発して、晋州城に一番乗りを果たしたといわれているもく

さらに土木普請も得意であり、熊本城築城の際にはその能力を遺憾なく発揮し、百間石垣とよばれる石垣は覚兵衛さんの功績といわれていて、「飯田丸」という覚兵衛さんの名を冠した郭ものこされているもく

 

 

 

蜂須賀正勝さんの娘である糸姫さんは、正室として黒田長政さんのもとに嫁いだけれど豊臣秀吉さんの没後、徳川家康さんに接近していた長政さんは、関ヶ原の戦いがおこる直前、糸姫さんを離縁し、家康さんの養女である栄姫さんを正室にむかえたもく

この離縁がきっかけで蜂須賀家と黒田家は「不通大名」となり、江戸城内で顔を合わせても会釈も挨拶もせず、やむを得ず同席する場合も離れて座についたといわれているもく

 

 

 

はじめ斎藤道三さんに仕えた丸毛兼利さんは、のちに織田信長さんに仕え、本能寺の変のあとは豊臣秀吉さんに仕えたもく

関ヶ原の戦いがおこった際、福束城二万石の主だった兼利さんは、東軍からの誘いを蹴って西軍に属したもく

しかし、福束城が東軍に対する最前線ともいえる場所に位置していたために、東軍先鋒の猛攻を受けることとなった兼利さんは、城を支えきれず大垣城へと逃れたもく

戦後は、前田利常さんに仕えたと伝わっているもく

 

 

 

肥後天草諸島の国人であり、キリシタンでもあった天草久種さんは、豊臣秀吉さんの九州平定の際に服属したため本領を安堵されたけれど、秀吉さんが発令したバテレン追放令には従わなかったもく

その後、小西行長さんに対し反乱を起こすものの鎮圧され、またもや本領を安堵された久種さんは行長さんに臣従し、文禄・慶長の役関ヶ原の戦いにも従軍したもく

関ヶ原の戦いのあとは小早川秀秋さんのもとに身を寄せたと伝わっているもく

 

 

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【戦国IXA】10 月の追加武将一覧

どたどたどたどた。。。。。。゙(ノ・`з・)ノ こんにちはーのろしもく 

10月になってもまだ暑~いという感じのところも多いけれど

朝晩はだんだんと秋の気配も? ということで

スポーツの秋にチャレンジ中もく! 

でも ちょいと休憩タ~イム

からのぉ 食欲の秋 ♪ ( ^ )з^)🍙もーぐもーぐもく

 

 

さて 戦国IXA では 秋のはじまりを彩る

 

 10 追加武将 公開されました もく

 

 

追加されるのは

【 極 】 丹羽長秀さん 母里太兵衛さん 片倉景綱さん 朝比奈摩仙名さん

【 特 】 本多忠朝さん 北郷忠相さん 一条信龍さん

【 上 】 尾藤知宣さん 

【 序 】 松井康之さん

以上の 9 名 

 

 

そして

服部半蔵さん 風魔小太郎さん 百地三太夫さん

以上の 3 名 がそれぞれ

新規イラストでの 【 天 】 と 

スキルやステータスを新しくした

イラスト復刻版の 【 極 】 で 登場するとのこともく

 

 

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片倉景綱【 極 】、朝比奈摩仙名【 極 】、

服部半蔵【 天 】【 極 】、風魔小太郎【 天 】【 極 】、百地三太夫【 天 】【 極 】

取引出品・譲与不可で

2022年1月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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丹羽長秀さんは、猛者ぞろいの織田信長さんの家臣団にあって、多岐にわたる活躍により柴田勝家さんに続く二番家老を務めていた人物もく

信長さんがまだ尾張統一にも苦心する若き頃から小姓として仕え、年齢も近く、その後天下を目指す主君を大いに支えたため、信長さんからは友であり兄弟であると評され、最も厚い信頼を得ていたともいわれるもく

「鬼五郎左」と呼ばれるほど勇猛な武将であったそうだが、物資の調達や補給路の確保、戦後処理など裏方的な任務も着実にこなし、造船や築城などの政務も任されたことから、米のように何にでも合い織田家にとってなくてはならないものとして「米五郎左」とも称されたもく

 

 

 

黒田家に仕えた母里太兵衛さんは、長政さんの家臣の中から24人の精鋭を選出したという「黒田二十四騎」に数えられ、さらにその中でも如水さんの時代から活躍する優れた8人を指した「黒田八虎」のひとりもく

相当な腕っ節だったようで合戦では常に先鋒を務め生涯にあげた首級は家内一だったと伝わるもく

そんな太兵衛さんの代名詞として知られるのが民謡「黒田節」で伝わるお酒に関する逸話もく

同じく豪快な逸話が多く残る福島正則さんのもとを、長政さんの使者として訪れた際にお酒を勧められたが、仕事で来ているからと断るもあまりにしつこく、また、悪酔いの挑発で黒田家を見下すような発言もあったため我慢ならず受けて立つと、大盃で数杯を飲み干し、その褒美に名槍「日本号」を所望して福島家の家宝を見事に呑み取ったそうもく

 

 

 

代々の片倉家当主が襲名した「小十郎」の初代で、その通称でも知られる片倉景綱さんは智勇兼ね備え、武の伊達成実さんと並び伊達家の双璧として活躍したもく

幼少期に両親を亡くしたため、文武両道の才女と伝わる年の離れた姉・喜多さんに育てられて、その姉が政宗さんの乳母に任命されると自身も政宗さんの傅役に抜擢されたもく

景綱さんは最も政宗さんから信頼されていたといわれ、逆に景綱さんも囮になって戦場で窮地の政宗さんを救ったり、主君より先に子宝に恵まれるわけにはいかぬからと実子を殺そうとするなど、家内随一の忠義ぶりで応えたもく

政宗さんの参謀として名を馳せると、時の天下人である豊臣秀吉さんや徳川家康さんが直臣に迎えようとするほど能力を評価されたが、いずれの誘いも断って生涯伊達家のために尽くしたもく

 

 

 

鉄砲伝来以降、高い軍事力によって台頭し、中央集権に抗う傭兵集団として紀州で一大勢力を誇った雑賀衆であったが、本能寺の変後に覇権を狙った秀吉さんの紀州征伐によって終焉を迎えようとしていたもく

雑賀衆方もゲリラ戦法で応酬するが、大兵力を前にじり貧状態となって落城を重ね、残る拠点が少なくなる中、雑賀衆・太田党を率いた宗正さんらは太田城に籠城したもく

この戦いで太田城は日本三大に数えられる激しい水攻めを受けて降伏することになるのだけれど、その最中に城中から単独で船を出し秀吉軍に攻め込んだ者がいたんだってもく

名を朝比奈摩仙名さんといい、朱柄の槍を持った尼僧で、縦横無尽に暴れ回って秀吉軍を驚かし、生け捕りにされるもその奮闘ぶりに感心した秀吉さんが城に帰らせたと伝わるもく

 

 

 

本多忠朝さんは、徳川家康さんの重臣・忠勝さんの次男として生まれ、初陣の関ヶ原の戦いでは父に劣らぬ勇猛さで活躍し、その戦功により忠勝さんの旧領上総大多喜5万石を与えられて上総大多喜藩の2代藩主となったもく

新田開発を積極的に行うなど内政面でも手腕を振い、また、近海を航海中に難破したスペイン船乗組員団を手厚く保護したり、遺産相続に関する兄弟間でのやりとりでは自分には不要と受け取りを拒否する頑固さを見せるなど、何かと芯がある人物だったみたいもく

一方でお酒による失敗が多かったようで、大坂冬の陣でお酒を飲んでいたため不覚をとってしまい敗退したとも伝わるもく

汚名返上の覚悟で臨んだ大坂夏の陣では毛利勝永さんを相手に奮戦するも討死、死の間際までお酒の失敗を後悔していたそうで、お酒で失敗する人をお酒嫌いにして救うと遺言したことから、今日では「酒封じの神」として崇められているんだってもく

 

 

 

北郷忠相さんは、島津家の分家である北郷家の8代当主で、初代からの悲願であった都城盆地の統一を成し遂げ、都城中興の祖とも呼ばれる名将もく

忠相さんが家督を継いだ戦国時代初期の頃に北郷家が治めていたのは3城ばかりで、周囲には実力者が割拠しており、特に伊東家からの猛攻には防戦一方であったが伊東尹祐さんの急死をきっかけとして攻勢に転じると、島津本家や他分家とも協力しながら都城盆地の統一に乗り出したもく

周辺勢力を次々と討って成長し広大な都城盆地を次第に手中に収めていくと、統一を成し遂げた頃には島津本家にも大きな影響を与えるまでの力を有し、10代当主・時久さんの時代に迎える北郷家最大版図の礎を築いたもく

 

 

 

武田信玄さんの異母弟で、鎌倉時代に断絶していた名門・甲斐一条家名跡を継いだ一条信龍さんは、武田家の親族衆として騎馬200騎などを有したそうもく

戦場では主に後方に配置されることが多かったためか目立った活躍はあまり伝わっていないが、武田家の駿河国侵攻後には対徳川家の重要拠点である田中城を任されたり、信玄さんの遺言によって武田勝頼さんの後見人となるなど、家内での序列の高さが想像できるもく

また、その死については諸説あるようだけれど、崩れゆく武田家のために最期まで奮闘したのではないかとの推測が一般的みたいもく

人物像などもはっきりとしたことがあまり伝わっていないけれど、甲陽軍鑑では「どれほど忙しくても武具や馬が新しく、常に諸国の良い浪人を集めており、伊達者にして花麗を好む性質」と評されており、文武両道に秀でていたことがうかがえるもく

 

 

 

尾藤知宣さんは、秀吉さんに仕えた古参中の古参の武将もく

はじめ織田信長さん配下の森長可さんに仕え、次に秀吉さんに仕えることになり、秀吉軍黎明期において最も軍事に通じていた者として功績をあげ、黄母衣衆に列したもく

仕えた当初には想像もできなかったであろう地位へと突き進む主君に従い小牧・長久手の戦いなどにも参加、四国征伐後には戦功によって讃岐国宇多津5万石を与えられる出世も果たしたもく

そして、大敗により改易された仙石秀久さんの後継の軍監に就任して九州征伐にも参加するが、戦況判断を誤り失態を重ねたことで秀吉さんの怒りを買い、所領を没収されて追放されてしまったもくぅ

 

 

 

代々室町幕府幕臣である家柄に生まれた松井康之さんは、自身も13代将軍・足利義輝さんに仕えたもく

義輝さんが暗殺された後には足利義昭さんに接近したとも、同じ幕臣であった細川藤孝さんと行動を共にしたともいわれるが、藤孝さんが織田信長さんに仕えるようになった頃には、藤孝さんの家臣としての活動が顕著になっていたみたいもく

本能寺の変後、藤孝さんが出家すると子の忠興さんに仕えて、天下人となった秀吉さんの戦いに従軍して活躍、関ヶ原の戦いでは忠興さんと共に徳川方に与したもく

康之さんは忠興さんの大きな危機を二度救ったそうで、いずれも時の権力者である秀吉さん、家康さんに目を付けられるというものであったが、康之さんの奔走により事なきを得たもく

その信頼もあってか、松井家は江戸時代を通して大名細川家の筆頭家老を務めるに至ったもく

 

 

 

 

 

服部半蔵 」さんは、服部家の当主が代々名乗った通り名で、一般的に初代とされるのが将軍足利家に仕えた後に松平清康さんに仕えたといわれる人物、その息子であり2代目とされる人物こそが「徳川十六神将」に数えられるひとりで、世間でよく知られている服部半蔵さんもく

2代目は父が仕えていた清康さんの孫である家康さんに仕えて各地を転戦していたが、有名なのは本能寺の変後に三河へ戻る家康さんの九死に一生の逃亡「伊賀越え」を成功させたことで、後にその時の協力者であり徳川配下となった伊賀同心達の指揮を任されたもく

初代は伊賀出身の忍者であったが、それ以降の半蔵さんは忍者ではなかったという説があり、2代目は槍の名手として活躍した足軽で「鬼半蔵」と恐れられたという記録が残るようだけれど、伊賀同心達を指揮して戦いや諜報活動を行っていたこと、父をはじめ関係者に忍びに造詣が深い者も多いことなどから2代目もまた忍者という認識は根強いみたいもく

 

 

 

 

 

風魔小太郎 」さんも、北条家お抱えの忍者集団の頭領が代々名乗った通り名もく
風魔忍者はいわゆる忍者というよりも盗賊や無法者というような性質で、夜討ちを得意とした「乱波」と呼ばれる武力集団だったらしいもく

日本三大奇襲のひとつで北条家を関東の覇者へと押し上げる河越夜戦武田勝頼さんを相手に戦った黄瀬川の戦いにて風魔忍者と思われる者達の活躍があったとのこともく

小太郎さんに関しては史料が少なく、黄瀬川の戦いに関わったという5代目について伝わっているのがあまりにも人間離れした風貌なため、創作された人物だといわれているけれど、忍びであるため身を隠し本来とはかけ離れた姿の噂話をあえて流したのではないかという見方もあるみたいもく

また、北条家には風間出羽守さんという諜報任務などを担っていた人物が実在したようで、この人が小太郎さんではないかともいわれているもく

 

 

 

 

 

百地三太夫さんは、江戸時代に作られた物語にその名が登場し、伊賀流忍術の祖で石川五右衛門さんや霧隠才蔵さんに忍術を伝授した人物として描かれているもく

今日ではその三太夫さんのモデルと考えられる百地丹波さんと同一人物として語られることが多いみたいもく

百地家は伊賀の喰代に砦を構え、確かなことはわからないみたいだけれど、服部家、藤林家と並ぶ伊賀三上忍、あるいはその土地の名家であったと考えられているもく

織田家伊賀国一揆が戦った第一次天正伊賀の乱にて、伊賀忍者を率いて織田信雄軍を撃退する大金星をあげる活躍をしたということで、後世で伝説的な忍者として語られるのも納得もくね

 

 

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【戦国IXA】9 月の追加武将一覧

∩^з^)∩ こんにちはー のろしもく

新たな舞台が開幕してもうすぐ1ヶ月もくね

すでに合戦も2回おこなわれたけど みんなハッスルしてるかなもく? 

 

さて 戦国IXA では 今月も頼もしい顔ぶれが新登場ですもく

 

 9 月 の 追加武将 が 公開されました もく

 

追加されるのは

【 極 】 義姫さん 小早川隆景さん 水谷正村さん 織田信雄さん

【 特 】 村井長頼さん 三村元親さん 稲葉正成さん

【 上 】 池田勝正さん 

【 序 】 真田信政さん

以上の 9 名

 

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水谷正村【 極 】、織田信雄【 極 】 は 取引出品・譲与不可で

2021年12月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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出羽国山形城主である最上義守さんの娘としてうまれた 義姫 さんは、おなじ出羽国の米沢城主である伊達輝宗さんの正室となったもく

最上家とは対立関係にあった伊達家へ一種の政略結婚で嫁いだ義姫さんは、知性と度胸、さらには行動力も兼ね備えた人物だったようで、夫の輝宗さんが兄の最上義光さんを攻めた際には、みずから戦場へ駈けつけ、駕籠で陣中を突っ切り、輝宗さんに撤兵するよう迫ったんだってもく

さらに輝宗さんの没後、息子の伊達政宗さんと義光さんのあいだで争いがおこると、またしても義姫さんは輿に乗って戦場に駈けつけ、両者が停戦を了承するまで両軍のあいだに居座り続けたといわれており、その日数はなんと80日間と伝わっているもく

さすが戦国時代を代表する武将伊達政宗さんの母君、ただ者ではないもくね

 

 

 

毛利元就さんの三男である 小早川隆景 さんは、次兄の吉川元春さんとともに「毛利両川」と称され、三代の毛利家当主を支えて毛利家を中国地方の覇者へと押し上げたもく

隆景さんが当主を継承した小早川家は水軍で有名な一族で、隆景さんに率いられて毛利一門となってからは、毛利水軍として数々の合戦で活躍し、毛利家の勢力拡大に貢献したもく

毛利家の政略を一手に担ってきた隆景さんは、豊臣秀吉さんからもその能力や人柄を高く評価されており、天下人をして「日本の西は、小早川隆景に任せればすべて安泰である」とまで言わしめ、豊臣政権下では五大老のひとりに任命されたもく

 

 

 

常陸国の名門結城家の家臣で、結城四天王の一人にも数えられる 水谷正村 さんは、出家後の蟠龍斎という名でもよく知られ、生涯無敗を誇る勇猛果敢な武将だったと伝わっているもく

結城家と下野の宇都宮家の対立が深まるなか、正村さんは最前線に久下田城を築いて城主となり、宇都宮勢を相手に多くの武功を挙げ、さらに結城領と宇都宮領の境界付近に位置する中村城を攻めて中村玄角さんを討ち取り、その武勇を不動のものとしたもく

複雑な勢力図が展開される関東において、持ち前の勇猛さで結城家を支え続けた正村さんは、豊臣秀吉さんが天下人となると結城家からの独立を許されて大名となったもく

 

 

 

織田信雄 さんは織田信長さんの子で、本能寺の変で父と長兄の織田信忠さんが討たれ、その敵を討った羽柴秀吉さんが織田家の勢力を継承しようと突き進むなかで、兄弟の織田信孝さんもまた自害に追い込まれてしまったもく

家臣であるはずの秀吉さんが、主筋をないがしろにして台頭していくことを快く思わない信雄さんは、徳川家康さんと同盟を結んで秀吉さんに合戦を仕掛けたけれど、自領に羽柴方の侵攻を受けると、家康さんに無断で秀吉さんと単独講和を結び、その後は秀吉さんに臣従することとなったもく

大坂の陣で徳川方についた信雄さんは、上野国甘楽郡などに五万石を与えられ、その子孫たちは大名や旗本として江戸時代を送ったもく

 

 

 

前田家の家臣だった 村井長頼 さんは、はやくから前田利家さんのそばに仕え、戦場ではみずからが盾となって主君を救うこともあったんだってもく

苦楽をともにした長頼さんに対する利家さんの信頼はあつく、前田家が加賀国に封じられて大名になると、長頼さんは家老に任じられ、他の重臣らとともに加賀前田家の基礎を築いたもく

長頼さんの「又兵衛」という通称は、利家さんの通称「又左衛門」から一字を拝領したといわれており、また、長頼さんが立派な髭をたくわえていたことから、利家夫妻は長頼さんのことを「髭殿」と呼んでいたと伝わっているもく

こういった逸話からも利家さんからの信頼のあつさと親しみの気持ちがうかがえるもくね

 

 

 

三村元親 さんは備中松山城主で、父の三村家親さんは宇喜多直家さんが放った刺客に鉄砲で狙撃されて亡くなったもく

家督を継いだ元親さんは、毛利家の力を借りながら宇喜多勢と合戦を繰り返したけれど苦戦が続き、父の無念を晴らすことはなかなかできなかったもく

さらには頼りとしていた毛利家が宇喜多家と手を結ぶという事態が発生したため、元親さんは毛利家を離れ、織田家を頼ることを決意したもく

すると毛利家は三村討伐に乗り出し、備中松山城の周辺の城を次々と陥落させていったもく

孤立無援の状況に追い込まれた元親さんは、毛利方に切腹を願い出て、城下町にある松連寺で自刃したもく

 

 

 

稲葉重通さんの婿養子となった 稲葉正成 さんは、豊臣秀吉さんに仕えたのちに小早川秀秋さんの家臣となることを命じられ、関ヶ原の戦いでは秀秋さんを徳川方に寝返らせることに成功したもく

しかし戦後は、奇行の目立つ秀秋さんと対立して美濃に蟄居し、秀秋さんの死後は浪人となり、のちに徳川家康さんに召し出されて、美濃国内に一万石の領地を与えられ十七条藩主となったもく

その後、松平忠昌さんの家老として清崎城主となるも、忠昌さんの越前移封に従わず蟄居を命ぜられ、数年後またもや幕府に召し出されると、今度は下野真岡で二万石を領する大名となったもく

 

 

 

室町時代後期、摂津池田家は摂津国内最大級の国人で、その版図は 池田勝正 さんの代において最大となったとされているもく

足利義昭さんを擁して上洛した織田信長さんに対し、勝正さんは抵抗を試みたものの織田家の軍事力の前に降伏を余儀なくされたもく

しかし、勝正さんの能力を高く評価した信長さんは、加増の上で領地を安堵し、伊丹親興さん、和田惟政さんとともに「摂津三守護」のひとりとして、摂津の支配を任せたもく

その後、一族の寝返りによって池田城を追われた勝正さんは、信長さんから原田城主に任じられたけれど、信長さんと義昭さんが対立すると幕府方についたため、今度は原田城からも追われてしまうこととなったもく

 

 

 

真田信政 さんは、真田信之さんの次男として生まれ、父が上田から松代へ加増移封された際、松代藩の一部を支藩として与えられたもく

しかし、沼田藩主であった兄の真田信吉さんが早世し、その跡を継いだ熊之助さんも七歳で亡くなったため、信政さんが沼田藩主となったもく

兄が亡くなったため、いずれ信政さんが父・信之さんの跡を継いで松代藩主となるはずだったけれど、なかなか信之さんが隠居しないので、信政さんは父が自分ではなく兄の系統に松代藩を継がせようとしているのではないかという疑念を抱いていたといわれているもく

九十歳を過ぎた信之さんが隠居し、ようやく松代藩主となった信政さんだったけれど、それからわずか二年後に病死してしまったもく

 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

  

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【戦国IXA】「 螺旋興亡 ~ 払暁の勇将 ~ 」 新天情報

こんにちはーっ! 元気ですかーっ!

  p(〃>ε<〃)ノ   のろしもくーっっ!!

いよいよ この日が や ーーーーーーーー ってきましたもく!!!

 

 

2021 年 8 月 13 日( 金 )

  戦国IXA  新たな舞台が開幕・・・!

  螺旋興亡  ~  ★★★

↓↓  新たな舞台の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/new_season/

 

新章では武将カードの仕様変更もあるとのこともく

↓↓  天限突破の詳細はこちらもく

https://cache.sengokuixa.jp/www/2021tengen/2021080201.html

 

 

そして 新たな舞台の大殿であり

   戦国 IXA の 新【天】武将カード として登場するのは

                   こちらの 12 名もくっっっ!!!

 

 

上杉景勝さんは、軍神から義を引き継ぎ武家の誇りを胸に、生涯の腹心である直江兼続さんと二人三脚で戦乱の時代を生き抜いた気骨ある人物もく

幼少期に母の弟である謙信さんに養子として迎えられ薫陶を受け育つと、実子がいなかった謙信さん急死後の家督相続争い・御館の乱を、武田家との関係強化などによって勝利し、上杉家の当主となったもく

しかしその混乱がまだ燻る中、今度は敵対関係となっていた織田信長さんの軍勢が迫り、武田家滅亡によって上杉家も窮地に陥ったが、本能寺の変によって難を乗り切ると、すぐに秀吉さんに接近しその天下を後押しした功績から豊臣政権の五大老の座に付いたもく

そして会津百二十万石に加増移封されて全国屈指の大大名になると、秀吉さん死去後には、同じ五大老のひとりであり次の天下を狙う徳川家康さんに堂々と喧嘩を売り、それが関ヶ原の戦いのきっかけになったともいわれているもく

かなりの愛刀家であったそうで、収集した刀の中には現代の国宝・重要文化財が多数あるんだってもく

 

 

 

毛利輝元さんは、父・毛利隆元さんが急死したため幼くして中国地方の覇者の座を引き継いだもく

13代将軍・足利義輝さんより「輝」の一字を賜って元服、幼年だったためしばらくは戦国一の智将と名高い偉大なる祖父・元就さんや、叔父の吉川元春さんが後見となって補佐したもく

祖父が亡くなりいよいよ独り立ちとなった頃、中央では幕府の権威が失われ織田信長さんが台頭、そして足利義昭さんが毛利家を頼り落延びてくると、当時毛利家は織田家と同盟関係であったが義昭さんの要望に応じ信長包囲網に加わったもく

戦況は反信長勢力が次々と脱落していき劣勢となったものの本能寺の変が起こったため一変、交戦していた秀吉さんと和睦が成立し、その後は秀吉さんの天下取りに臣従したことで豊臣政権では五大老のひとりに数えられたもく

関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立されたけれど、戦場には赴かなかったそうで、そのまま敗軍の将となったが毛利家改易は何とか免れると、減封された長門にて領国繁栄に尽力し、幕末で倒幕運動の中心を担う長州藩の礎を築いたもく

 

 

 

羽州探題世襲するも停滞していた名門を、戦国大名として復活させた最上義光さんは、巧みな策略と剛勇さで「羽州の狐」や「奥羽の驍将」と呼ばれたもく

家督相続も一筋縄ではいかず、相続直後も周辺勢力支配に苦慮したため、内政の充実に舵を切り数々の善政によって領民の支持を得て、さらに織田信長さんに謁見し出羽守への推任を願い出るなどしっかりと足場を固めて、まずは威信を回復させたもく

そして義光さんは調略による敵陣営の切り崩しを得意とし、極力戦わず勝利を収めることができたそうで、それを可能として優れた観察眼によっていち早く秀吉さんに接近したことにより、奥州仕置では所領を安堵されたもく

しかし豊臣秀次さん切腹事件により愛娘の駒姫さんを失ったことが影響したのか、次第に旧知の間柄であった徳川家康さんとの仲を深めていくと、関ヶ原の戦いでは東軍に属し上杉景勝さんと戦い、その功を評価されて戦後には五十七万石を領する出羽山形藩の初代藩主へと至ったもく

幼少の頃より体格に恵まれ力が強かったことから刀の約二倍の重さの鉄製の指揮棒を愛用していたそうだが、一方で、妹を溺愛し筆まめだった一面もあり、やりとりした手紙が多数残っているらしいもく

 

 

 

生涯五十回以上の合戦に参戦したのに傷一つ負わなかったという逸話や、数々の輝かしい戦歴で戦国最強とも評されるのが本多忠勝さんもく

本多家は古くから徳川(松平)家に仕える家柄で、忠勝さんも幼少の頃から家康さんを支え続け、天下統一に導いたもく

家康さんの三河統一の際に頭角を現し若くして親衛隊に抜擢されると、織田家との連合で浅井・朝倉連合軍を相手にした姉川の戦いでは果敢な単騎駆けなどで勇名を馳せ、武田信玄さんと激突した一言坂の戦い後には「家康に過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多忠勝」という声が出るほど敵味方問わずその活躍ぶりを称えられ、やがて豊臣秀吉さんからも「天下無双の大将」だと絶賛されたもく

また、忠勝さんといえば、鹿の角をあしらった鹿角脇立の兜や、漆黒の甲冑、自らが葬った敵を弔うためにかけていたという大数珠、そして天下三名槍に数えられる愛槍・蜻蛉切といった出で立ちも有名で、最強伝説や忠義を貫いた武骨な人物像などとともに現代でも人気が高い武将もく

 

 

 

主君であった武田家滅亡、そして織田、豊臣、徳川と天下が移り変わる激動の時代に、着実にお家を守り抜いた名君が真田信之さんもく

父・昌幸さんは「表裏比興の者」、弟・幸村さんは「日本一の兵」として知られているため、幾分目立たぬという評価もあるが、しかしながらその実績は確かなもので、武田家滅亡の混乱の中、父を補佐し近隣にもその勇猛さが知れ渡っていたといわれるもく

そして領地を守るため徳川家と戦った第一次上田合戦では活躍が家康さんの目にも留まると、戦後の和睦において徳川方の重臣本多忠勝さんの娘を妻として迎えることになり、また、父、弟と東西別れて戦うことになった関ヶ原の戦い後には敗将となった二人の助命嘆願が認められたことからも、相当な人物であったことがうかがえるもく

当時としては異例の長寿で93歳まで生き、四代将軍・徳川家綱さんの時代には歴史の生き証人として幕府から「天下の飾り」と呼ばれ、死去の際には家臣だけでなく多くの領民も悲しんだと伝わるもく

 

 

 

福島正則さんは、豊臣秀吉さんの親戚筋だったとされ、ねねさんとの間に実子がなかった秀吉さんに幼少期からかわいがられた子飼いの武将もく

小姓として仕えた後に初陣を飾り、秀吉さんの主立った合戦に参加し功を挙げ出世していくと、柴田勝家さんを相手にした賤ヶ岳の戦いでは一番槍の活躍により「賤ヶ岳の七本槍」のひとりに数えられてその名を轟かせたもく

続く四国征伐でも活躍し伊予今治に十万石を与えられて大名になり、秀吉軍随一の猛将としての地位を確固たるものとしていった正則さんであるが、良くいえば裏表なく豪快、悪くいえば荒くれ者や大酒飲みという逸話が多くあり、悪酔いでの約束で天下三名槍に数えられる家宝の日本号を取られてしまったこともあるらしいもく

そういう性根のせいか文治派の石田三成さんとはそりが合わなかったようで、秀吉さんの死を機に対立が決定的になり、反対に徳川家康さんとは接近したため、関ヶ原の戦いを前にした諸将の東西軍選択に大きな影響を与えたといわれるもく

正則さんがなぜ東軍に属したかについては、一本気な性格なので老獪な狸(家康さん)にうまく丸め込まれた、三成さんをよほど嫌いだったなど色々考察もあるようだけれど、東軍勝利に大貢献し安芸・備後四十九万石を賜ったもく
しかしその後の豊臣家を相手にした大坂冬の陣、夏の陣では戦地に赴くことはなかったと伝わるもく

 

 

 

豊臣秀頼さんは、父が時の天下人であった秀吉さんで、母は淀さん(織田信長さんの妹・お市さんの娘である浅井三姉妹のひとり)というもの凄い血筋を引き継ぎながら、時代に翻弄される生涯となったもく

秀吉さんはあとを継ぐ実子に恵まれず、甥の秀次さんを後継者とするため養子に迎えていたのだけれど、そんな中で秀頼さんが生まれたので当然秀吉さんは大層喜び、それが影響したのかは諸説あるが、やがて秀次さんは粛清されて切腹となり、さらに秀頼さんの世継ぎのために様々な無理を強いたといわれているもく

加えて、秀頼さんが生まれた時には秀吉さんは既に高齢であり、出生については当時から様々な噂があったことも影響したのか、秀頼さんがまだ幼年時に秀吉さんが亡くなると、政争に巻き込まれていくことになるもく

東西両軍とも秀頼さんのためにという大義名分であった関ヶ原の戦いであったが、その戦後処理から雲行きが怪しくなり、徳川家康さんによる天下を狙う動きが次第に顕著になってくると、豊臣家と徳川家は決裂し大坂の陣へと突入したもく

戦いに敗れて豊臣家滅亡の暗君とも評されるが、大坂方に集まった武将も少なくなかったことから器量申し分なく、家康さんに若年のうちに何とかしておかないとと思わせる程の才覚を有したのではと評する見方もあるみたいもく

また、母とともに炎上する大坂城にて自害したとされるが、死体がはっきりしないことから多種多様な生存説も伝わっているもく

 

 

 

築城名人であることと、何度も主君を変えて出世していったことで知られる藤堂高虎さんは、近江の小領主の家に生まれたが暮らしは豊かではなく、そこから己の実力で立身した傑物もく

はじめ浅井長政さんに足軽として仕え姉川の戦いなどで功を挙げたが、浅井家滅亡により浅井家旧臣や織田信長さんの甥・信澄さんのもとを転々とすることになり、いずれも長続きはしなかったもく

転機となったのが羽柴秀吉さんの弟である秀長さんとの出会いで、ここでは相性が良かったのか、数々の合戦で活躍するとそれに見合う正当な評価により出世を重ねることに成功、高虎さん自身も主君をとても信頼していたようで秀長さんとそのあとを継いだ秀保さんの二人が亡くなると出家して隠棲するほどであったもく

秀吉さんが才を惜しんだことで還俗すると、伊予七万石を与えられて豊臣政権下で活躍し、秀吉さんが亡くなると今度は徳川家康さんに仕えたもく

徳川配下の中には、主君を何度も変え、大坂の陣においては恩義ある豊臣方を敵に回して戦うような高虎さんを良く思わなかった者も少なくなかったが、そんな声を跳ね返すほどの活躍ぶりで家康さんから信任を得て外様筆頭の立場に至ったもく

不忠と評されることも多いが、裏切りなどで主君を変えたことはなく、秀長さん時代の働きぶりや、家康さんに仕えた後に生涯徳川家のために尽力した姿こそが本来のものとして、忠臣だと評する声もあるもく

 

 

 

四国の覇者である元親さんの子として生まれた長宗我部盛親さんは、四男でありながらその後継者となった人物もく

物心がついた頃には、秀吉さんの四国征伐によって長宗我部家は豊臣家の配下となっていて、従軍した九州征伐の際に、本来の後継者であり将来を期待された長兄の信親さんが戦死、残る二人の兄も他家の養子となっていたため、元親さんの強い後押しもあり家督を相続したもく

しばらくは父との二元体制であったが、父の死、秀吉さんの死が立て続けに重なり、間もなく起こった関ヶ原の戦いでは西軍につくことを選択するも、これが裏目になってしまうもく

若年による経験不足もあってか、本戦に参加したが何もできないうちに西軍が敗北し長宗我部家も改易されると、盛親さんはそこから長い浪人生活を送ることになるもく

寺子屋の教師をやってなんとか暮らしていたような時代もあるといわれるが、不屈の精神で堪え忍び復興の機会を待つこと10年、ついにその時は訪れるもく

関係が悪化する豊臣家と徳川家の戦いに旧臣とともに豊臣方としての参加を決意し、大坂の陣では「五人衆」に数えられる主力部隊を率いて奮戦、豊臣方の敗北が濃厚となる中でも最期まで再興の道を探ったもく

 

 

 

小早川秀秋さんは、関ヶ原の戦いで西軍から東軍に寝返り大局を決定づけたことで広く知られているもく

豊臣秀吉さんの正室・ねねさんの兄の子であり、実子がいなかった秀吉さんの養子に迎えられて後継者のひとりとして育てられていたが、秀頼さんが生まれたことで状況が一変、実子を優先するために遠ざけられたとも取れる形で、毛利家の重臣で後継ぎがいなかった小早川隆景さんのもとへ養子に出されたもく

そして同じく秀吉さんの養子で、継承順では自身より上に位置する秀長さんが、秀頼さん誕生後に不可解な粛正にて切腹させられると、秀秋さんも嫌疑により十万石を没収されてしまうもく

さらに慶長の役から帰国した際には、秀吉さんから理不尽な減転封命令が出されて、多くの家臣の解雇が必要となり、長年の補佐役とも離れることになってしまったもく

この減転封命令には石田三成さんが関わる部分もあってそれをキーとする見方もあるみたいもく

秀吉さんが亡くなると、一連の扱いをひどく思ったのかあるいは他に思惑があったのか、徳川家康さんは秀秋さんを旧領復帰させたもく

天下分け目の戦いでは東西両軍から加増と、西軍からは秀頼さんが成人するまでの間の関白の地位を約束されたそうだけれど、秀秋さんはなぜ東軍を選んだのか?そこには様々な人間模様が見え隠れしているもく

 

 

 

黒田長政さんは、黒田官兵衛(如水)さんの嫡男で、父子ともに英傑達の天下取りに貢献したもく

官兵衛さんが織田信長さんの配下になり、その証として幼少の長政さんが織田軍の羽柴秀吉さんのもとに人質に出されたが、当時実子がいなかった秀吉さんには、同じく子飼いの武将として後の豊臣政権を支えた福島正則さんや加藤清正さんらとともにとてもかわいがられたもく

本能寺の変と前後し、官兵衛さんが秀吉さんの軍師として天下統一事業で力を発揮していくと、自身も初陣を飾って父に従い転戦し名をあげていったもく

家督を継ぐと豊臣政権の七将に烈し、文禄・慶長の役に参戦したが、この時に石田三成さんら文治派との確執が表面下し、秀吉さんの死により発生した政争では徳川家康さんに従ったもく

関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋さんや諸将の寝返り交渉をする役目を務め、戦場でも石田三成さんを支えた猛将・島左近さんを討ち取るなど、一番の功労者として筑前五十ニ万石を与えられ、福岡藩初代藩主を任されることになったもく

一説には、官兵衛さんが関ヶ原の混乱に乗じて九州から天下を狙ったが、長政さんの大活躍でまさかの一日で終戦となったため目論見が外れてしまい、これを切り取って偉大な父を子が超えたという見方もあるらしいもく

 

 

 

尚寧王さんは、琉球王国第二尚氏王統・七代目の国王もく

琉球王国沖縄本島を中心にその周辺諸島からなり、1429年に尚巴志さんによる三山統一によって成立した独立国家で、朝貢関係の明や室町幕府、朝鮮など周辺諸国との交易で栄えたが、尚寧王さんの時代になると情勢が複雑化したもく

当時、東アジアでは西洋の交易圏侵入が始まっており、加えて、琉球王国に対しては天下統一を成し国外に目を向け始めた豊臣秀吉さんから朝鮮出兵についてほぼ恫喝に等しい協力要請が出されるなど、難しい舵取りを迫られたもく

徳川の時代になっても明との交易の道を模索する幕府からの協力要請が出されたが、これらをかわし続けるも、ついに1609年には家康さんの許しを得た薩摩藩の島津家の侵攻が始まり降伏したもく

薩摩へと連行され約2年帰ることができなかったが、国王としての威厳を保ち、その間には江戸にものぼり、道中の駿府で謁見した家康さんからも異国の王として迎え入れられたもく

琉球に戻ると、日本と明の両属という立ち位置で独特の文化を発展させていったもく

 

 

 

【天】武将カードとして初登場の 5 名を含めて

それぞれどんな活躍をしてくれるのか楽しみもくね (〃^ε ^〃)どきどき

 

なお

上杉景勝【 天 】 毛利輝元【 天 】  については取引出品・譲与不可とのこともく

 

 

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今回の【天】武将カード追加時に下記の【天】武将カードは一部くじより排出停止とのこともく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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