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スクウェア・エニックスのオンラインゲーム 【 戦国IXA 】を 応援する煙の妖怪 のろし が 戦国IXAやのろしのことをゆる~くお届けするブログもく

【戦国IXA】「 異説覇伝~日輪の威光と轍~ 」 新天情報

2022 年 8 月 5 日( 金 )

  戦国IXA  新たな舞台が開幕・・・!

 

【 異 説 覇 伝 ~ 日 輪 の 威 光 と 轍 ~ 】

 

↓↓  新たな舞台の詳細はこちらもく

http://sengokuixa.jp/season24/

 

 

新たな舞台では

 

新【 傑 】武将カードとして 

天下統一を成し遂げ 戦国一の出世頭といわれる あの傑物が登場するもく!!!!

 

 

そして 大殿ならびに

新【 天 】武将カードとして 12 名の猛者達が登場するもく!!!!

 

 

 

 

 

↓↓  【傑】 の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/new_rarity/

 

新たに【 傑 】武将カードとして登場する 豊臣秀吉 さんは、織田信長さん、徳川家康さんと並び三英傑と称され、誰よりも早く天下統一を成し遂げた偉大な人物もく

出自について近年では様々な説も語られているけれど、低い身分から成り上がった「戦国一の出世頭」であることがよく知られており、立身出世の代名詞として現代においても憧れを持つ人が多いもく

信長さんに仕え、伝説ともされる墨俣一夜城の築城をきっかけに出世の道を切り開くと、子飼の武将ら若き才能を囲い独創的な策で功を重ね、本能寺の変後の中国大返しによって仇敵・明智光秀さんを討つと、織田家の筆頭家老・柴田勝家さんとの対立も制して信長さんの後継者としての地位を確立したもく

そして、関白に任じられて正親町天皇から「豊臣」の姓を賜り、朝廷の最高職である太政大臣にも就任して中央の政治も掌握すると、九州、関東、奥羽を平定して天下人になったもく

また、争いのない世の中を目指すために政権下において実行された刀狩りや太閤検地など様々な政策は、近世の中央集権構造の基礎を作り上げたもく

 

 

 

孝高、如水という名や、キリシタン大名であることでも知られる 黒田官兵衛 さんは、三人の天下人に仕え、中でも秀吉さんのもとでは軍師として活躍し、その天下統一を大いに支えたもく

後世にて共に両兵衛と評される竹中半兵衛さんの死と入れ替わるように秀吉さんから重用されるようになると、人を討つことを嫌ったともいわれる官兵衛さんは、兵糧攻めや水攻めなどの戦術により戦わずして敵を降伏させていったもく

そして天下統一の実質的な総仕上げとなる小田原征伐では、北条氏政さん、氏直さん親子を説得し無血開城に貢献したもく

才能を秀吉さんから高く評価されると同時に、天下を脅かすほどの存在だと次第に警戒されるようになったともいわれ、秀吉さん没後には関ヶ原合戦に乗じて、平定後に与えられていた九州の地から実際に覇権を狙っていたのではないかという説もあるみたいもく

 

 

 

両兵衛や二兵衛と称されて秀吉さんを支えた名軍師のもう一人が 竹中半兵衛 さんもく

幼少の頃より兵法の研究に励んでいたそうで、美濃の斎藤家に仕えていた際に、わずか十数人で斎藤家の主城である稲葉山城を乗っ取ったことで広くその才が知れ渡ったもく

その後、秀吉さんが三顧の礼で迎えたとも半兵衛さん自身が秀吉さんの覇気を見抜いたともいわれるが、秀吉さんに仕えると様々な計略を駆使して成果をあげたことから、中国の三国時代の名軍師・諸葛孔明に例えられた「今孔明」という異名が後世にも伝わっているもく

体が弱く華奢であった半兵衛さんは、織田信長さんもまだ生きている時代に三十六歳の若さで亡くなってしまったけれど、後に秀吉さんが「半兵衛が生きている頃は何一つ怖いものがなかった」と語る程の存在だったようで、もう少し長生きをしていればまた違った歴史が残っていたかもしれないといえる人物もく

 

 

 

織田信長さん亡き後の空席を秀吉さんと争ったのが、柴田勝家 さんもく

信長さんの宿老として知られる勝家さんだけれど、信長さんがまだ大うつけと呼ばれた頃の織田家家督争いでは信行さん方に与したため、信長さんとは一度敵対する関係にあったもく

それを払拭する思いもあったのか、信長さんに仕えてからは率先して先鋒を担い、猛者揃いの織田家臣団の中でも屈指の猛将として名を馳せ、「鬼柴田」とも呼ばれ恐れられたもく

やがて北陸方面軍司令官に任命されるなど名実ともに筆頭家老として信頼を勝ち取った勝家さんだけれど、本能寺の変直後の立ち回りで後れを取ったことも尾を引いて、織田家の後継者問題や領地再分配を決める清洲会議により家内での立場が秀吉さんと逆転してしまうもく

二人の対立は深まり賤ヶ岳の戦いへと発展し、勝家さんは敗れて自害、秀吉さんは天下人へと大きく歩を進めることとなったもく

 

 

 

宇喜多秀家 さんは、父・直家さんの死によってまだ幼少でありながら家督を継ぐことになり、当時、織田信長さんの配下として中国攻めを進めていた秀吉さんの軍に組み込まれたもく

秀吉さんからは大層気に入られたようで、本能寺の変後には所領を安堵され、元服の際に「秀」の字を与えられて秀家と名乗るようになり、さらに秀吉さんの養女・豪姫さんを娶ったもく

寵愛に応え、秀吉さんの天下統一のための戦いに積極的に参加して活躍し、文禄の役では大将として出陣、慶長の役からの帰国後にはそれまでの数々の功績から豊臣政権下の五大老に任命されたもく

秀吉さん没後も忠義心を貫き、同じく五大老であった徳川家康さんが力を誇示しようとすることに反対し、西軍の主力として関ヶ原合戦に参戦するも敗れて八丈島流罪となったもく

 

 

 

信濃の地域領主で武田家に仕えていた真田幸隆さんの三男として生まれた 真田昌幸 さんは、幼少時に武田家に人質に出されていたもく

その時に軍略などの教育を受け、信玄さんの奥近習衆にも加えられて戦国最強とうたわれた武田軍から多くのことを学び、戦場でも活躍するようになっていったもく

その後、信玄さんが病死し、父も亡くなって、武田家が大敗した長篠の戦いでは二人の兄も戦死したため昌幸さんが真田家の家督を相続したが、武田家が滅亡してしまうと真田家生き残りのために周辺勢力への従属や離反を繰り返していくことになるもく

信玄さん仕込みの知謀を発揮し、中でも徳川軍を二度撃退した上田合戦では武名を大いに轟かせ、当時天下に最も近い位置にあった秀吉さんからも「表裏比興の者」と評されたもく

最終的には秀吉さんに接近し、真田家と北条家の間での領土紛争をきっかけに小田原征伐へと繋がっていくのだけれど、結果として真田家の領土は安堵されたため、ここでも昌幸さんの知謀が発揮されたという見方もあるみたいもく

 

 

 

屈強として知られる島津四兄弟の長兄で、当主として最大版図を築きあげたのが 島津義久 さんもく

家督を継いでから薩摩・大隅・日向の三州を制圧すると勢いをさらに加速させたのが耳川の戦いで、当時九州最大勢力であった大友宗麟さんの侵攻に対して「釣り野伏せ」戦法を用いて大勝し、大友家を衰退させることに成功したもく

さらに肥前で台頭していた龍造寺隆信さんを沖田畷の戦いにて討ち、九州統一目前というところまで勢力を拡大させたが、秀吉さんと対立し九州攻めを受けてしまうもく

大軍勢を前に抵抗するも追い詰められて、降伏により薩摩一国は安堵されたのだけれど、豊臣政権下になっても不服とも取れるような様子をしばしば見せていたそうもく

また、領外のことは弟達に任せて自身は領内に留まり続けており、それらは反撃の機会をうかがっていたためとも考えられるが、徳川家の時代に移り変わってもなお家内で絶大な権威を保ち続けたそうもく

 

 

 

紀伊半島の山や海の様々な営みに携わる職人達の共同体であり、味方にすれば必ず勝利すると評された戦国最強の鉄砲傭兵集団が「雑賀衆」もく

雑賀衆の中にはいくつかの派閥があって、その中の一つ鈴木家にて頭領や有力者が代々名乗ったとされる名が「孫市」で、彼らの著名な活躍が混在し人物像として語られるのが 雑賀孫市 さんもく

最も知られるのは、石山合戦本願寺顕如さんと共に織田信長さんを長年苦しめたことで、本願寺が降伏した後は親織田家の立場になったといわれるもく

しかし、雑賀衆の中には反織田家の立場を貫く一派も存在して本能寺の変後には秀吉さんにも反抗したため、孫市さんは秀吉さんの配下となって両者の取次あるいはその討伐を担ったそうもく

その後は豊臣家の鉄砲隊として小田原征伐関ケ原合戦にも参加し、伊達家に仕えたという話もあるようだけれど、どこまでが同一でどこからが別人による活動なのかはっきりとはわからないらしいもく

 

 

 

秀吉さんの子飼の武将であった 加藤清正 さんは、本能寺の変後の賤ヶ岳の戦い七本槍に数えられる活躍によってその名が知られるようになったもく

大きな体躯で片鎌槍を操る槍の名手にして、福島正則さんと共に豊臣政権の武断派の代表格であるなど、武士然とした勇将という印象もあるけれど、城づくりにも才を有し、熊本城、江戸城名古屋城といった多くの名城の築城・改築に携わっているもく

また、領国統治にも優れた手腕を発揮し、難しい地域とされた肥後を任せられると、治水や農業・商業政策の整備などで民の生活基盤を向上させることに成功したもく

民にやさしく、また、徳川家の時代になっても豊臣家への義を重んじるような人柄であったため、当時はもちろん現代の熊本においても広く支持されているそうもく

 

 

 

傾奇者」とは、常軌を逸した発想や行動、派手な様相、社会通念にとらわれない粋な生き方により、怪訝や畏怖、時には羨望をも集めた人々や風習のことで、その中でも天下一と評されて、秀吉さんからも自らが思うように好きに生きることを認められたというのが 前田慶次 さんもく

江戸時代から既に多くの創作物に登場して、今日に至ってもそれらの流れを汲む小説や漫画などで様々な逸話に彩られているため人気の武将ではあるけれど、史実を裏付ける史料は少ないらしいもく

特に前半生については不明点が多いようで、逸話の多くも前田家を出奔してからのものがほとんどとなっており、確かなところでは関ヶ原合戦の前後に上杉景勝さんに仕えて活躍した記録が確認できるみたいもく

破天荒な印象が先行するけれど高い教養も備えたようで、これは京都に身を置いていた期間が長く、多種の文化人との交流によって培われたと考えられており、その頃に上杉家の直江兼続さんと出会い意気投合したともいわれているもく

 

 

 

秀吉さんの出世のきっかけとしてよく知られている墨俣一夜城の築城にて、大きな力を発揮したと伝わるのが 蜂須賀小六 さんもく

小六さんは、はじめ美濃の斎藤家に仕えており、秀吉さんとの出会いや織田家に仕えるようになった経緯については諸説あるものの、墨俣一夜城の築城以降は秀吉さんの与力に付けられたもく

信長さん最大の窮地だったともいわれる金ヶ崎の退き口では秀吉さんと共に殿を務め、信長さんから秀吉さんに命じられた中国攻めにおいては調略にて大きな功をあげたもく

子飼や若い武将達が多くを占める秀吉軍にあって、古参かつ秀吉さんよりもひとまわり年上であった小六さんは大事な局面で常に存在感を放ち、出世街道を突き進む時代の秀吉さんをがっちりと支え、ついには天下人の側近となって生涯を閉じたもく

 

 

 

堀秀政 さんは、何事もうまくやってのけ、人心掌握にも長けたことから「名人」とまで評された人物もく

織田家に父の代から仕えており、既に人を惹きつけるものがあったのか十三歳にして信長さんの小姓に取り立てられると、各種奉行を務め信長さんの取次もこなし、やがて戦場でも重要な役を任せられるなど側近の地位を確かなものとしていったもく

毛利軍に対する秀吉軍の軍監として派遣されていた際に本能寺の変が起こり、直後の秀吉さんの動きに協力し明智光秀さんの討伐にも貢献して、清須会議以降も秀吉さんを支持して関係を深めていった結果、秀吉さんの一族以外で初めて「羽柴」の姓を与えられたもく

秀吉さんからも強固な信頼を得た秀政さんは、要地である越前国北ノ庄を治め、天下取りへの合戦でも主力で活躍したけれど、小田原征伐の途中に若くして病死してしまったため大変惜しまれたもく

 

 

 

九戸政実 さんは、陸奥国南部晴政さんに仕えて家内でも屈指の精鋭を誇ったもく

晴政さんとその実子の晴継さんが相次いで亡くなると、南部家は後継者問題に揺れ、晴政さんの婿養子である信直さんと家内の有力者である政実さんが激しく対立することになったもく

対立が長く続く中、奥州では小田原征伐を終えた秀吉さんによる仕置が行われたもく

早くから秀吉さんに接近し南部家の後継者扱いの認知も得ていた信直さんは、苦戦していたことから、政実さんが仕置に対する反感を持っているという体で秀吉さんに助けを求めたもく

同時期には奥州各地で仕置に対する一揆が燻っていたこともあってか、秀吉さんは激怒し政実さんのもとに六万を超える軍勢を送ったといわれるもく

政実さんは寡兵で対抗するもあえなく敗死となるが、これ以降に国内で秀吉さんと戦った勢力はなかったことから、政実さんは秀吉さんの天下統一最後の相手とも語られるもく

 

 

 

なお

豊臣秀吉【 傑 】 黒田官兵衛【 天 】竹中半兵衛【 天 】 については

取引出品・譲与不可とのこともく

 

 

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今回の【傑】【天】武将カード追加時に

下記の

【傑】武将カードは 全てのくじから
【天】武将カードは 一部くじより 排出停止とのこともく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】7 月の追加武将一覧

ぉおぉおぉぉおおおお もう今年も折り返しもくかっ ∑(。⊙ε⊙。)マジカヨ

いやぁ早いねぇ からのぉ こんにちはーのろしもく(・ε・ゞ-☆

 

みんなはもう夏の予定とかばっちりもく?

のろしは何しようかなぁもく よしっ 

まずはこちらのみなさんに のろし城へ遊びに来てもらおうもく!

 

 

戦国IXAでは

 

  7 追加武将 公開されました もく

 

追加されるのは

【 極 】 滝川一益さん 新納忠元さん 戸沢盛安さん 山中鹿介さん

【 特 】 京極高次さん 満天姫さん 中川清秀さん

【 上 】 屋代正国さん 

【 序 】 前野長康さん

以上の 9 名と

 

さらに

【 天 】 今川義元さん 武田晴信さん 北条氏康さん

以上の 3 名が 

スキルやステータスを新しくした復刻版として登場するとのこともく

 

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戸沢盛安【 極 】、山中鹿介【 極 】

今川義元【 天 】、武田晴信【 天 】、北条氏康【 天 】は

取引出品・譲与不可で

2022年10月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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滝川一益 さんは鉄砲の名手で、織田四天王のひとりにも数えられて鉄砲隊の総指揮や水軍の将を担うなど信長さんの天下統一事業に大いに貢献した人物もく

甲賀出身で多芸であったことから忍という説もあるようだけれど根拠となる史料はなく、若い頃に素行の悪さから堺に出奔した際に鉄砲を学んだともいわれていて、前半生についてはわかっていないことが多いみたいもく

信長さんに仕えてからは、多くの合戦にて先駆けや調略で最前線を担当する一方、要地の守備や、松平家との清洲同盟を結ぶ交渉役で力を発揮するなど何をするにも秀でた万能さから、「先鋒も殿も任せられるのは滝川」「進むも滝川、退くも滝川」など評されたもく

 

 

 

島津忠良さんから家久さんの代まで長きにわたり仕えた 新納忠元 さんは、武勇は鬼神の如しと称され、島津家家臣の中で武功者を数える際にはその名と共にまず最初に指折られることから「親指武蔵」など呼ばれたもく

豊臣家の九州征伐にも徹底抗戦を主張し、降伏した後も毅然とした態度で薩摩隼人の勇猛さを示したため秀吉さんを感心させたもく

高い教養や礼節も備えた人物だったそうで、家内の主だった者が豊臣家に従軍した薩摩の留守を任された際には、若者らの風紀の乱れを正すための規律「二才咄格式定目」を定め、薩摩にて幕末や現在にも受け継がれる郷中教育の基礎を作ったそうもく

 

 

 

出羽国の角館城当主の家に次男として生まれた 戸沢盛安 さんは、兄が病弱だったため13歳で家督を継いだもく

戸沢家は南部家の勢力に与していたけれど、盛安さんの父の代から領国経営の安定化により独立を目指しており、その成就のために自身の代になると近隣で力を持っていた小野寺家や安東家と戦ったもく

総大将でありながら単騎で敵方へと突っ込んでいくなど勇猛果敢な荒武者であった盛安さんは「夜叉九郎」と呼ばれて恐れられ、勝利を重ねて戸沢家の最大版図を築きあげたもく

小田原征伐への催促には東北勢の中でいち早く応じ、大雨で増水する川を気合いで渡り切って駆けつけたことで豊臣秀吉さんからも評価されたが、その参陣中に25歳の若さで病死してしまったもく

 

 

 

優れた武勇で「山陰の麒麟児」とも呼ばれ、三日月の前立と鹿の角の脇立の兜でも知られている 山中鹿介 さんは、滅亡した主家再興のために戦い続けた忠義の武将もく

その生き様や武士道精神は後世の講談や小説の題材に留まらず、戦前の教科書でも取り上げられたこともあるそうもく

仕えていた尼子家が新興の毛利家に中国地方の覇権を奪われると、他家からの誘いを断って生涯を尼子家のために尽くすことを選択し、三日月に向かって主家再興のために「我に七難八苦を与えたまえ」と祈るなど、いかなる苦難も受け入れ乗り越えるという気概で何度も再興軍を起こし毛利家の前に舞い戻ったけれど、願いは叶わぬまま生涯を閉じたもく

 

 

 

室町幕府四職に名を連ねた京極家は応仁の乱以降衰退して、下剋上により近江国での立場も浅井家と逆転していた時代に生まれたのが 京極高次 さんもく

幼少期は織田信長さんのもとで人質生活を送り、本能寺の変後には、明智光秀さん方、柴田勝家さん方に与するなど、なかなか勝ち筋に乗れない人生であったけれど、妹の竜子さんが豊臣秀吉さんの側室になったことが転機となり状況が変わるもく

竜子さんの口利きや秀吉さん自身が名門復活を企てた面もあったのか、秀吉さんの敵方に与していたことを許されただけでなく、浅井三姉妹の次女・初さんを正室に迎えることにもなったもく

その後出世を重ねる高次さんは、妹や妻の威光を受ける「蛍大名」だとも揶揄されたけれど、関ヶ原の戦いでは自身でしっかりと功をあげ、戦後には徳川家康さんから若狭一国を与えられたもく

 

 

 

満天姫 さんは、徳川家康さんの異父兄弟の娘に生まれて、家康さんの養女となったもく

豊臣秀吉さんが亡くなると、家康さんは豊臣家の有力家臣であった福島正則さんを味方に付けることを目的として、その養嗣子・正之さんに満天姫さんを嫁がせたもく

そして徳川家の姫であることも大きく関係した複雑な人間模様を経た後に、息子を一人授かるも夫と死別し徳川家に戻った満天姫さんは、津軽弘前藩藩主の津軽信枚さんと再婚することになったもく

しかしそこでも戦国の世の数奇な人間模様に翻弄されることになり、さらに正之さんとの子を自らの手で毒殺しなければならない悲しい運命が待っていたもくぅ

 

 

 

摂津国の小領主の家に生まれた 中川清秀 さんは、摂津国の有力者であった池田勝正さんに従い、足利義昭さんへの援軍として三好勢と戦った本圀寺合戦で名を上げたもく

やがて摂津国の混乱に乗じて野心を燃やした荒木村重さんに味方し、自身も勢力を拡大させて茨木城主となると、村重さんが織田信長さんに反旗を翻したためはじめそれに従ったけれど、「鬼瀬兵衛」と称された清秀さんの武勇を高く評価していた信長さんに誘われて降伏したもく

本能寺の変後は豊臣秀吉さんにつき、山崎の戦いでは先鋒として活躍するも、賤ヶ岳の戦いで討死してしまったもく

 

 

 

屋代正国 さんは、北信濃村上義清さんの重臣として、武田信玄さんの信濃侵攻に対抗していたもく

その中の上田原の戦いにて嫡男を亡くしているが、真田幸隆さんの調略によって塩崎家や雨宮家と共に村上家を離反して武田家の家臣になったそうもく

離反は村上家への影響も大きかったようで、数日後には居城である葛尾城を放棄させるまでに至ったもく

以降の屋代家は三十年間にわたり武田家の信濃先方衆として活躍したんだってもく

 

 

 

前野長康 さんは、尾張統一を目指していた時代の織田家の協力者として歴史の表舞台に登場し、以降はまだ木下藤吉郎さんの名であった秀吉さんに従って活動した豊臣家の中でも最古参の家臣のひとりもく

後に建築奉行を務めるなど築城の才能に秀でたそうで、秀吉さんの墨俣一夜城築城伝説に協力したともいわれているもく

織田家、豊臣家の天下統一事業の主たる合戦にはほぼ参加していたようで、武においても非凡さを見せて但馬国出石にて十一万石の出世を果たすと、二代関白である秀次さんの宿老になるなど順風満帆な人生を送っていたけれど、秀次さんの切腹事件に連座し最期は自害となってしまったもく

 

 

 

今川義元 さんは、今川家第11代当主で、戦国最強の僧侶といわれる太原雪斎さんの教育を受けて、優れた領地経営能力と戦国武将としての力を磨いていったもく

やがて領地を駿河遠江三河尾張の一部にまで拡大させるなど今川家の最盛期をつくり、東海道の支配者として「海道一の弓取り」の異名も轟かせたもく

文化人としての一面も有名で、多彩な才を誇った義元さんは当時上洛に一番近い武将ともいわれていたけれど、桶狭間の戦い織田信長さんに敗れたもく

 

 

 

武田晴信 さんは、後の武田信玄さんで、戦国最強軍団を築きあげて「甲斐の虎」の異名でも恐れられた知勇兼備の猛将もく

幼き頃から天才だったといわれる晴信さんは、父の信虎さんを追放する形で甲斐の守護大名の座を継ぎ、その後は甲斐国の発展のために戦い続けた生涯で、中でも隣接する越後国上杉謙信さんとのライバル関係は後世においても有名なところもく

天下統一へと勢いを加速させていた当時の織田信長さんをもってしても一目置かざるを得ない存在で、晴信さんの最期は病死だったのだけれど、もしもう少し長生きしていたら歴史は大きく変わっていたかもしれないもく

 

 

 

早雲さんからはじまり、戦国時代に小田原城を本拠に関東一円を支配した北条五代の三代当主として知られるのが 北条氏康 さんもく

河越合戦の勝利にて関東の勢力図を大きく塗り替えると、甲相駿三国同盟を結び、民からも慕われる善政を行うなど優れた政治手腕で領国経営を盤石なものとしたもく

北条家を関東の覇者へと押し上げて、「甲斐の虎」武田信玄さんや「越後の龍」上杉謙信さんとも対等に渡り合った氏康さんは「相模の獅子」と呼ばれて恐れられたもく

 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】6 月の追加武将一覧

こんにちは 本格的な雨のシーズンも近づき

おしゃれなレインブーツが気になっている のろしもく ジー( ・з・) 』』

そして戦国IXAでは

こちらもとっても気になる (・ε・ )ジー .。oO( もく!?…スキル名の文字数が!?)

 

  6 の 追加武将 が 公開されました もく

 

追加されるのは

【 傑 】 生駒吉乃さん

【 極 】 板部岡江雪斎さん 百武賢兼さん 森本儀太夫さん 南光坊天海さん

【 特 】 九戸実親さん 督姫さん 秋月種実さん

【 上 】 佃十成 さん 

【 序 】 各務元正さん

以上の 10 名

 

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森本儀太夫【 極 】、南光坊天海【 極 】

取引出品・譲与不可で

2022年9月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

 

生駒吉乃【 傑 】は取引出品・譲与不可とのこともく

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▼レアリティ【 傑 】について

https://sengokuixa.jp/new_rarity/

 

織田信長さんが最も愛した女性といわれるのが、生駒吉乃 さんもく

吉乃さんは、交通の要所であった尾張国小折の地で、商いあるいは土地の有力者として冨を築いていた家に生まれたもく

生駒家の屋敷には様々な土地の人の出入りがあったようで、尾張統一を目指していた当時の信長さんもそんな生駒家の財力や情報力を求めて訪れたそうもく

信長さんといえば正室帰蝶さんが有名であるけれど実子には恵まれなかったことも関係するところなのか、吉乃さんに出会い恋心を抱くと足しげく屋敷に通い、諸説はあるものの、やがて二人の間には後継者となる信忠さんを含む三人の子が生まれたもく

出産後も屋敷で暮らしていた吉乃さんは、三人目の徳姫さんを産んだ後に体調を悪くしてしまい、そのことを知った信長さんは正室と同様あるいはそれ以上の処遇で扱ったけれど、甲斐も虚しく亡くなってしまったもく

 

 

 

北条得宗家の子孫とされる田中泰行さんの子 板部岡江雪斎 さんは、真言宗の僧となっていたところを北条氏政さんに見いだされ、北条家の家臣である板部岡家の家督を継ぐこととなったもく

弁舌に優れた江雪斎さんは北条家の外交僧として活躍し、徳川家康さんと北条氏直さんのあいだに信濃国をめぐる対立が生じた際には、氏直さんの名代として和睦交渉に奔走し、家康さんの娘である督姫さんを氏直さんの正室に迎えいれるという、北条家に有利な和睦を成立させたもく

豊臣秀吉さんによって北条家が滅ぼされると、江雪斎さんは秀吉さんに対して命乞いもせずに鮮やかな弁舌をふるい、その潔さに感心した秀吉さんは江雪斎さんをゆるし、御伽衆にくわえたもく

秀吉さんの命により、江雪斎さんは姓を「岡野」とあらため、その子孫は旗本として江戸時代も存続したもく

 

 

 

百武賢兼 さんは、肥前国龍造寺隆信さんの優れた家臣として称される龍造寺四天王や両弾二島のいずれにも名を連ねた勇将もく

龍造寺家の再興を託され肥前統一までも果たすこととなる隆信さんの躍進を支え各地を転戦し、百人並みの武勇の持ち主であると評されて主君より百武姓を賜ったと伝わるもく

また、義にも厚かったようで、先代の龍造寺家が助けられて恩のあった蒲池家を攻めることになった際には涙を流し主君に背く形になっても出陣を拒み続け、一方で最期まで主君を支える意志も貫いて沖田畷の戦いで追い詰められる隆信さんを必死に守ろうと奮戦し討死したもく

 

 

 

若い頃より加藤清正さんに仕え、飯田覚兵衛さん、庄林隼人さんと共に加藤家三傑と呼ばれたのが 森本儀太夫 さんもく

文禄の役では、「亀甲車」と呼ばれる城壁破壊兵器を考案したといわれ、この兵器は板で囲いその上に大量の牛皮を張った装甲車で、通常の矢や岩はおろか火矢すらも防ぐ亀の甲羅のような堅牢さを誇り、儀太夫さんもこれに乗り込んで難攻不落だった敵城へと突進し一番乗りを果たしたんだってもく

また、土木事業や築城技術に長け、熊本城や江戸城の築城でも才を発揮したそうもく

 

 

 

南光坊天海 さんは天台宗の僧で、宗教を政治にも利用しようと思案した徳川家康さんの知恵袋として活躍し、徳川将軍家三代に仕えて江戸幕府初期の朝廷政策や宗教政策に深く関わった人物もく

陰陽道・風水にも造詣が深く、一説では幕府の本拠地を古代中国の「四神相応」の考えをもとにして江戸に選定したともいわれているもく

その前半生はわかっていない部分が多く、陸奥国の蘆名家が出自だとも考えられているが、百歳を超える長寿だったとされることをはじめとして、数々の怪奇な逸話などから後世のフィクションに登場することもしばしばで、歴史のロマンとして、その正体は生き延びた明智光秀説などが語られる事も少なくないみたいもく

 

 

 

九戸実親 さんは南部家の有力家臣であり、当主の晴政さんの次女が正室という親戚関係でもあったもく

晴政さんには男児がいなかったため跡取り候補として、長女の婿養子に石川信直さんが迎えられていたけれど、その後実子として嫡男の晴継さんが誕生すると次第に信直さんは疎まれるようになったそうもく

その状況には実親さんも関わっていたともいわれるが、そんな中で晴政さん、そして晴継さんが相次いで亡くなってしまい、南部家は長女の夫と次女の夫による後継者争いに揺れることになるもく

結果、後継者は長女の夫の信直さんとなり、それに納得できない実親さんは兄の政実さんと共に南部家と対立したが、この反乱が奥州仕置後の豊臣政権に対する反乱とも見なされてしまい討伐軍が派遣されて斬首となったもく

 

 

 

督姫 さんは、徳川家康さんの次女で、母は側室であった西郡局さんもく

はじめ、織田信長さんが亡くなり無主状態となった甲斐国信濃国などでの徳川家康さんと北条氏直さんの領土争いの和睦のために、氏直さんの正室として嫁いだもく

夫婦仲は悪くなかったようだけれど、豊臣秀吉さんの小田原征伐の後に氏直さんが亡くなってしまったので家康さんのもとに戻り、その後、秀吉さんの強い仲立ちによって池田輝政さんと再嫁し、のちにいずれも藩主やその妻となる五男二女をもうけたもく

輝政さんは徳川家の時代に姫路藩初代藩主になるなど「西国将軍」と称される大出世を果たすが、子の代も安泰となるほどの家の繁栄は、督姫さんの力があってこそだと語ったこともあるらしいもく

 

 

 

筑前国の国人である秋月家当主の次男として生まれた 秋月種実 さんは、大友家の侵攻により父と兄を失い、自身も毛利元就さんを頼って落ち延びるなど苦難の幼少期を過ごしたもく

その逆境から成長し元就さんの支援もあって旧領を回復させると、さらに奇襲攻撃で大友家を退けるなど武名を轟かせたもく

その後一時は大友家に従属したが、耳川の戦いで大友家が大敗すると再び反旗を翻し、大友宗麟さんの暴悪十ヶ条を掲げて反大友勢力の同盟を築き、筑前豊前の大友領を奪っていったもく

有力戦国大名として最盛期を迎えた種実さんだったけれど、九州に攻めてきた豊臣秀吉さんの力を見誤り、同盟関係の島津方に与して戦い敗北し、領地を没収されて日向に移封となったもく

 

 

 

佃十成 さんは、徳川家康さんに仕えていたが同僚を些細な争いで討ってしまい追われることになって、摂津国西成郡佃に蟄居し、その際に佃十成と名乗るようになったそうもく

そして秀吉さんの子飼衆のひとりとしても知られる加藤嘉明さんに請われて家臣になると、九州や小田原の征伐、文禄・慶長の役に従軍し活躍を重ねて家老に取り立てられたもく

続く関ヶ原の戦いにも従軍を願ったけれど、東軍に与する嘉明さんの留守を守るよう命じられて、西軍に与する毛利勢からの伊予国松前城への襲撃を見事に撃退したもく

この功によって伊予浮穴郡久万山に六千石の所領を与えられたそうもく

 

 

 

各務元正 さんは、美濃に生まれ土岐家の勢力であったけれど、斎藤道三さんが台頭するとそのまま斎藤家に取り込まれて、さらに道三さんが亡くなると織田家重臣であった森可成さんに仕えたもく

摂津国で戦う織田軍の背後を狙い浅井・朝倉連合軍が進軍すると、それを阻止するために可成さんは出陣し討死してしまうが、元正さんは宇佐山城の守りを任されて寡兵でありがながらその進軍を足止めし、信長さんからも直接賞賛されたもく

森家の家督を長可さんが継ぐと、元正さんは森家の家臣として引き続き数々の戦いに従軍し、鳥毛の長指物を指して戦った高遠城攻めなど、戦での活躍ぶりは織田家中に知れ渡り「鬼兵庫」という異名でも呼ばれたもく

また、蒲生氏郷さんが元正さんを気に入り高待遇で引き抜きをしようとしたけれど、その勧誘を断る忠臣ぶり見せたという逸話もあるらしいもく

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】5 月の追加武将一覧

ゴールデンなウィークを満喫中のひとも

ゴールデンなウィークの谷間のひとも

ゴールデンなウィークが終わっちゃったひとも

みなさんごきげんよう のろしですもく♪ ドモヾ('ε'*)(*'з')ノ ドモ

 

今月も 戦国IXA には

ゴールデンでエクセレントな武将たちが追加されるので要チェックもくっ

 

 5月 追加武将 が 公開されました もく

 

追加されるのは

【 極 】 寿桂尼さん 水原親憲さん 飯田覚兵衛さん 霧隠才蔵さん

【 特 】 竹中重矩さん 森忠政さん 高山友照さん

【 上 】 家城之清さん 

【 序 】 工藤業綱さん

以上の 9 名

 

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寿桂尼【 極 】、飯田覚兵衛【 極 】、霧隠才蔵【 極 】は

2022年8月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

 

飯田覚兵衛【 極 】、霧隠才蔵【 極 】は 取引出品・譲与不可とのこともく

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藤原北家勧修寺流の中御門家に生まれた 寿桂尼 さんは、足利家一門の駿河国守護大名今川氏親さんの正室となった女性で、今川氏輝さんや今川義元さんらの生母もく

晩年病床にあった氏親さんをよく補佐し、氏親さんが制定した分国法「今川仮名目録」が仮名交じり文で書かれていることから、この制定には寿桂尼さんがおおきく関わっていたのではないかといわれているもく

また、氏親さんの没後も若年の当主氏輝さんに代わって政務を執っていたとみられ、寿桂尼さんの「歸」という印判がおされた文書が多数確認されているもく

夫や子らを補佐して今川家の繁栄に貢献した寿桂尼さんは「女戦国大名」と呼ばれていたんだってもく

 

 

 

上杉家の家臣である 水原親憲 さんは鉄砲隊の指揮に長けた名将で、愛用の兜には「風の神、雷の神、火の神」と書かれた団扇をあしらった前立てがつけられていたもく

勝ち戦では寡黙でありながら、ひとたび自軍が苦戦に陥ると大音声で味方を鼓舞してまわったといわれ、上杉謙信さんから「剛の者」と讃えられたもく

大坂冬の陣でも鉄砲隊を率いてめざましい活躍を見せた親憲さんは、徳川秀忠さんから感状を賜ったけれど、「謙信公の元で、今日死ぬか明日死ぬかと思いながら必死に戦ってきて、一度も感状などもらえたことはなかったのに、このような花見同然の合戦で感状をいただけるとは」と嘲ったといわれているもく

 

 

 

幼い頃から加藤清正さんと共に育った 飯田覚兵衛 さんは、清正さんの家臣であると同時に良き友のような存在でもあったみたいもく

森本儀太夫さん、庄林隼人さんと並んで加藤家三傑と称された覚兵衛さんは、文禄・慶長の役で亀甲車という装甲車を開発して晋州城に一番乗りを果たし、一説ではこの功績により豊臣秀吉さんから「覚」の字を与えられたともいわれているもく

また、熊本城築城の際には普請奉行をつとめたといわれ、「飯田丸」という覚兵衛さんの名を冠した郭がのこるなど、築城にも類稀な才能をもっていたことが知られているもく

 

 

 

真田家三代の興亡を主題とした講談「真田三代記」に霧隠鹿右衛門という忍者が登場し、その人物をもとにして作られたとされる架空の忍者が 霧隠才蔵 さんもく

伊賀忍者の頭領である百地三太夫さんから伊賀流忍術の極意を授かった才蔵さんは、姫路ちかくの山中で甲賀流の猿飛佐助さんと遭遇して忍術比べをおこない、真田幸村さんに仕えることとなったもく

真田十勇士のなかでも佐助さんとともに中心的な忍者として描かれる才蔵さんは、大坂の陣で徳川勢を悩ませる活躍をみせ、残念ながら大坂城は落とされてしまったものの、豊臣秀頼さんを城外へ脱出させることに成功したんだってもく

 

 

 

羽柴秀吉さんの軍師として有名な竹中半兵衛さんを兄に持つ 竹中重矩 さんは、半兵衛さんが主君斎藤龍興さんから稲葉山城を奪い取ったという逸話では、城内で病気を装う役割をになっているもく

斎藤家滅亡後は半兵衛さんとともに織田家に仕え、姉川の戦いでは、味方を装って織田信長さんの本陣に切り込んだ敵将遠藤直経さんの正体を見破り、見事直経さんを討ち取ったといわれているもく

半兵衛さんの病没後も織田家に仕えた重矩さんだったけれど、本能寺の変のあとに起こった美濃国不破郡での郷士一揆との戦いで戦死してしまったもく

 

 

 

織田信長さんの家臣森可成さんの子である 森忠政 さんは、森長可さんや森蘭丸さんなどを兄に持つけれど、みな合戦や本能寺の変などで討死してしまったため、末っ子の身ながら家督を継ぐこととなったもく

忠政さんも、兄蘭丸さんらと同様に一度は小姓として信長さんに出仕したけれど、信長さんの目の前で同僚の頭を扇子で殴ってしまい、まだ出仕するには幼すぎるということで親元に返されたもく

しかし、その結果、本能寺の変に巻き込まれずに済んだという見方もあり、豊臣政権の時代を大名として無事に生き抜いた忠政さんは、徳川家に政権がうつると美作一国十八万六千五百石へ加増転封されたもく

 

 

 

摂津国島下郡高山村の土豪だった 高山友照 さんは、当時仕えていた松永久秀さんから命じられてキリスト教と仏教との討論会で審査役をつとめ、そこでキリストの教えに感化され、嫡男の高山右近さんら家族とともに洗礼を受けたもく

久秀さんの支配力が低下すると友照さんは和田惟政さんに属し、その後、惟政さんの跡を継いだ惟長さんを追放して高槻城主となったもく

高槻城主となった友照さんは宣教師らの活動を保護したりキリスト教会の建設などをおこない、そのため領内には多くのキリスト教徒がいたといわれているもく

 

 

 

北畠家の家臣である 家城之清 さんは、「家城主水は槍主水」と当時の謡にうたわれるほどの槍の名手で、織田信長さんが北畠領に侵攻してきた際には、池田恒興さんの軍を迎撃して退却させ、武功第一と称賛されたもく

この争いは、信長さんの子である信雄さんを北畠具房さんの養子に迎えるかたちで和睦が成立したけれど、その後信長さんの命によって信雄さんが刺客をはなち、具房さんの父である具教さんやその子、家臣らが討たれてしまったもく

之清さんは、具教さんの弟である具親さんが起こした反乱に加わり、織田軍に加担した旧北畠家臣らを相手に奮戦するも戦死してしまったもく

 

 

 

工藤業綱 さんは九戸政実さんの家臣で、鉄砲の名手だったといわれているもく

豊臣政権下、陸奥の大名であった南部信直さんに対して政実さんが反乱を起こした戦いで、敵方の蒲生源右衛門さんが傘をかかげてこれを撃ち抜くように伝えてくると、業綱さんは傘のどの部分を撃ち抜けばよいか尋ね、その指定された部分を約百間の距離から撃ち抜いたといわれているもく

業綱さんは、乱が鎮圧されたあとも信直さんの居城ちかくに潜伏し、機会をとらえて信直さんの狙撃を試みたけれど、残念ながら失敗に終わり捕らえられてしまったもく

しかし、信直さんは業綱さんの命を奪わず逆に二百石を与えて召し抱え、業綱さんもその後は信直さんに忠義を尽くしたといわれているもく

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

また

他の武将カード排出停止について

お知らせが掲載されていますもく

https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n6262414c3e08e

 

 

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【戦国IXA】4 月の追加武将一覧


えっほ┏( ・ε・)┛ほいさっ┏( ・ε・)┛どっこいしょ┏( ・ε・)┛

こんにちはー のろしもくっ

 

春になって新生活が始まった人もいるかなもく?

のろしのご近所にも最近引っ越してきた人がいるけれど

新たに 戦国 IXA へとやってきたのは こちらの皆さんもく!

 

 

 

追加されるのは

【 傑 】 賀茂在昌さん

【 極 】 大野治房さん 龍造寺家兼さん 片倉重長さん 宍戸梅軒さん

【 特 】 堀直政さん 大井の方さん 九鬼浄隆さん

【 上 】 中野康実 さん 

【 序 】 稲田植元さん

以上の 10 名

 

そして

帰蝶さん ねねさん 淀さん

以上の 3 名 がそれぞれ

新規イラストでの 【 天 】 と 

スキルやステータスを新しくした

イラスト復刻版の 【 極 】 で 登場するとのこともく

 

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片倉重長【 極 】、宍戸梅軒【 極 】、

帰蝶【 天 】【 極 】、ねね【 天 】【 極 】、淀【 天 】【 極 】

取引出品・譲与不可で

2022年7月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

 

賀茂在昌【 傑 】は取引出品・譲与不可とのこともく

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▼レアリティ【 傑 】について

https://sengokuixa.jp/new_rarity/

 

戦国時代から安土桃山時代にかけて、賀茂在昌 さんというキリシタン陰陽師が存在したそうもく

在昌さんの実像については確かなことがわかっていないものの、ルイス・フロイスさんらが残したキリシタン文献において、公家にして天文学の名家の出自である人物が、宣教師達の天文学知識に感銘を受けたことをきっかけに洗礼を受けてキリシタンになったという記述が確認できるらしいもく

また、日本側の史料では、天文や暦の担当機関を統括する陰陽頭を務めていた人物が、焼損した東大寺大仏に代わる大仏造立・安置のために豊臣秀吉さんが創建した方広寺地鎮祭に携わったという記録が残されているそうで、いずれの史料においても人物名が「あきまさ」あるいはそれに近い名であることから、同一人物という可能性を基にして研究が進められているみたいもく

 

 

 

大野治房 さんは、幼少より豊臣秀頼さんに仕えた武将で、古田織部さんから茶道を学んだ茶人でもあったそうもく

武将としての活躍は大坂の陣が知られており、まず冬の陣では防衛の総指揮を担い、戦局不利になっていく中でも夜襲を敢行して勝利するなど武闘派として存在感を示したもく

冬の陣は和睦となったが、それを推し進めた側にいた兄の治長さんとも不和になるなど納得がいっていなかった治房さんは、待ってましたとばかりに夏の陣では徳川秀忠さんを追い詰める奮闘ぶりを見せたと伝わるけれど、敗戦後の足取りは諸説あってわからないらしいもく

 

 

 

龍造寺家の分家である水ヶ江龍造寺家を興した 龍造寺家兼 さんは、本家が当主の早逝や分裂で衰退していく中、本家に代わって実権を握ると、剛勇と智謀で少弐家筆頭家臣にまで地位を押し上げたもく

北九州の覇権を狙い攻めてきた大内家も撃退するなど、遂には少弐家との主従関係を脅かすほどの力を有するようになったが、その台頭を恐れた同僚の馬場頼周さんの謀略によって子や孫が暗殺され、自身も筑後に逃れざるを得なくなってしまったもく

それでも既に九十を超える年齢でありながら再び戦場へ舞い戻ると、見事に頼周さんを討ち、曾孫の隆信さんを還俗させる旨を遺言して世を去ったもく

 

 

 

片倉重長 さんは、伊達政宗さんの軍師として知られる景綱さんの子で、政宗さん、忠宗さん、綱宗さんの三代に仕えたもく

大坂の陣では病床にあった父に代わって軍を率い、兜の前立てに戦勝の神として信仰を集めていた「愛宕山大権現」のお札を貼って出陣し、大坂城五人衆のひとりである後藤又兵衛さんを討ち取るなど武名を轟かせたもく

一軍を預かる大将自ら敵と刃を交えるなどあるまじき事だと父からは叱られたそうだが、世間からはその勇猛ぶりを片倉家代々当主の通称を冠した「鬼の小十郎」と評され、敵将の真田幸村さんにも大いに認められたと伝わるもく

 

 

 

宮本武蔵さんの死後に彼の弟子たちが伝えたという様々な話などが覚え書きとして残されていたそうで、江戸時代中頃に他史料などと一緒に整理されて発表された武蔵さんの伝記が「二天記」だったもく

その伝記の中に、伊賀国の鎖鎌の使い手として宍戸某なる人物が登場するそうもく

創作要素が大きいとも評される「二天記」でしかその存在が明らかになっていないため実在したかどうかも定かではないが、後世の武蔵さん題材の小説において、この人物をモデルにしたとされるのが 宍戸梅軒 さんもく

梅軒さんは、「宍戸八重垣流」という流派を編み出した鎖鎌の達人で、物語の前半を彩る強敵として登場しているそうもく

 

 

 

奥田家に生まれた 堀直政 さんは、いとこの堀秀政さんの家老を務め、その貢献から堀の姓を与えられたもく

はじめ、秀政さんと共に織田信長さんに仕え、先に出世したのが秀政さんだったために以降はその補佐としての役割に徹したとされるもく

信長さんの死後、堀家は豊臣家に仕え、直政さんは賤ヶ岳の戦いで十文字槍を片手に柴田勝家さんの金の馬印を奪う活躍を見せたそうもく

そして堀家が越後に国替えとなった際には、上杉家の旧領地であったために上杉遺民による一揆に苦慮するが、直政さんはこれを鎮圧して徳川家からの評価も上げるなど、お家のために尽くしたことから天下の三陪臣のひとりとも評されているもく

 

 

 

武田信虎さんの正室で、晴信さん(のちの信玄さん)らの母であったのが 大井の方 さんもく

当時の甲斐では守護である武田家と周辺の国衆との間で抗争が頻発していて、実力者であった大井家との和睦のための政略結婚によって武田家に嫁いできたと考えられているもく

子供達への教育に熱心だったそうで、晴信さんもその影響を大きく受けたといわれるもく

信虎さんが晴信さんに追放された後も母子の関係は良好であったため甲斐に留まり、当主となった晴信さんを諭すことができる数少ない人物だったと伝わるもく

 

 

 

九鬼浄隆 さんは、1551年に父の死によって家督を継いだもく

この頃の九鬼家は伊勢の北畠家の勢力に属し、志摩海賊七人衆に数えられ、また、志摩に数多く設置されていた地頭のひとつだったそうもく

九鬼家の力が大きくなってくると次第に他の地頭との対立が増え、北畠家の援助を受けた他地頭連合軍に攻められてしまうもく

浄隆さんは籠城戦を選び、弓の名手と称された腕前も発揮したようだけれど、その戦いの最中で討死したとも病死したともいわれるもく

この戦いから何とか脱出した弟の嘉隆さんは、織田家に仕え、のちの北畠家との戦いで水軍を率いて活躍することになるもく

 

 

 

南部家の支流であり家内の有力者でもあった九戸家を出自とする 中野康実 さんは、南部家が高水寺斯波家を攻略した際に従属させることを目的として高水寺斯波家に婿入りしたもく

しかし高水寺斯波家当主の代替わりによって確執が生まれると南部家に出戻り、この頃に岩手郡中野を領地に与えられたため姓を中野と改名したそうもく

そして復権を狙う高水寺斯波家が南部領へ攻め込んでくると先鋒を務めて返り討ちにしたもく

実兄が南部家および豊臣政権に対して起こした九戸政実の乱でも、実家ではなく南部家側に付き、子孫の代まで南部家内の重職を担う家柄になったもく

 

 

 

稲田植元 さんは、尾張岩倉城主の織田信安さんの家臣であった稲田大炊助さんの三男として生まれたもく

父が嫌疑によって切腹させられると、幼年の植元さんは父と懇意であった蜂須賀小六さんに預けられたもく

小六さんとは義兄弟の契りを結び、織田信長さん、豊臣秀吉さんに仕えた小六さんをよく補佐したそうもく

豊臣政権下において蜂須賀家が阿波一国を与えられると、蜂須賀家の筆頭家老という形で入国し、阿波九城の一つである脇城の城代になると、要所であるこの地を軍事商業の両面おいて発展させたと伝わるもく

 

 

 

 

 

帰蝶 さんは、美濃の斎藤道三さんの娘で、争っていた尾張織田家との和睦のための政略結婚によって信長さんに正室として嫁いだもく

嫁ぐ際に道三さんから短刀を渡されて、もし信長さんが噂通りのうつけであればそれで刺し殺すようにと言われたが、この短刀で逆に父を殺すことになるかもしれないと答えるなど肝の据わった才女だったらしいもく

また、明智光秀さんのいとこであったという可能性もあり、そういった戦国時代の錚々たる面々の縁者でありながら、嫁いでからは史料に登場することがなく、その後については様々な説が存在しているもく

嫁いで直ぐに離縁または亡くなってしまったという説もあれば、本能寺の変を題材にした浮世絵に薙刀を持った女性が描かれていることから本能寺にて信長さんと運命を共にしたという説、信長さん死去後の織田家内において安土殿という地位の高い女性が存在した記録があるのでこれが帰蝶さんという説もあるが、いずれも憶測の域を出ないみたいもく

 

 

 

 

 

北政所さんの名でも知られる ねね さんは、まだ身分が低く若かった豊臣秀吉さんと、周囲に反対されながらも当時としては珍しい恋愛結婚で結ばれたもく

二人の間に子は恵まれなかったが、夫の出世を内助の功で支え、加藤清正さんや福島正則さん、石田三成さんなど、のちの豊臣政権の中核を担う秀吉さん子飼いの武将達を養育したもく

秀吉さんが天下人になり、実子同様の愛情を注いだ子飼いの武将達が有力者となっていくと、元々持ち合わせていた器量の良さと豪胆さも相まって豊臣政権では大きな政治力を有し、秀吉さん死去後には出家するも強い影響力を保持したままだったと伝わるもく

秀吉さんの側室である淀さんとは対立していたという説では、そのためねねさんは徳川家になびき関ヶ原の戦いで東軍寄りに動いたことが遠因になって豊臣家の滅亡を招いたという見方もあるらしいもく

 

 

 

 

 

浅井長政さんとお市さんの間に生まれた浅井三姉妹の長女・茶々さんの名でも知られる さんは、豊臣秀吉さんの側室となり、その世継ぎである秀頼さんを生んだもく

浅井家滅亡にも関わっていて、母が再婚した柴田勝家さんも討った秀吉さんは、淀さんからすると両親の敵になるわけなので、嫁いだのは戦国の数奇な運命なのか様々な思惑なのかは今もって定かではないけれど、実子に恵まれていなかった秀吉さんの子を身ごもったことにより豊臣政権での発言力を強めていったもく

秀吉さん死去後は秀頼さんの後見人として豊臣家の実権を握るも、徳川家康さんとの対立により勃発した大坂の陣に敗れて大坂城で自害したそうもくぅ

秀吉さんの正室であるねねさんとの関係について近年の研究では、秀吉さんが亡くなった後には双方協調関係にあって、ねねさんは秀吉さんの菩提を弔うこと、淀さんは秀頼さんの後見をすることを役割分担として豊臣家存続にそれぞれ動いていたという説もあるみたいもく

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 



 

 

 

 

 

 

 

 

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