こんにちは のろしもく ヽ(^ε^)
のろしのTwitterではすでに新年のごあいさつをしましたが
2021年最初のブログ更新なので あらためまして
新年あけましておめでとうございますもく
(*ゝε・*)ノ◆◇◆◇ 謹 賀 新 年 ◇◆◇◆
2021年もよろしくおねがいしますもく
ヨロシクモク (o´_ _)o)ペコッ
今年ものろしのブログでは
戦国IXAやのろしのことをゆる~くお届けするもくよっ
それではさっそく
2021年最初のブログをどうぞもくーぅぅ (ノ≧з≦)ノ ソレーッ
1 月 の 追加武将 が 公開 されましたもく
追加されるのは
【 極 】 山本勘助さん 豊臣秀次さん 渡辺了さん 天草四郎時貞さん
【 特 】 有馬ジュスタさん 木曽義昌さん 西尾宗次さん
【 上 】 飛鳥井雅量さん
【 序 】 千々石ミゲルさん
以上の 9 名
-------------------------------------------------------------
渡辺了【 極 】、天草四郎時貞 【 極 】 は 取引不可 で
2021年4月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく
-------------------------------------------------------------
山本勘助さんは、武田信玄さんの軍師として活躍した智将で、「武田二十四将」や「武田の五名臣」の一人に数えられ、出家後は道鬼と称したもく
『甲陽軍鑑』以外ではほとんどその存在が確認できず、長年その実在性などについて議論がされていたけれど、近年ではその存在が確認できる他の史料も見つかっているもく
二十代の頃に武者修行の旅に出て、兵法や築城術をきわめたといわれ、信玄さんの軍師となってからは、村上義清さんとの合戦において全軍崩壊の危機に陥った武田軍を「破軍建返し」という策で勝利に導くなど、智将としての名を高めていったもく
しかし、川中島の戦いにおいて「啄木鳥戦法」と名付けられた策を用いたところ、上杉謙信さんにその策を見破られてしまい、武田軍は大打撃を受け、責任を感じた勘助さんは敵軍に突入して、討死したといわれているもく
豊臣秀次さんは、豊臣秀吉さんの姉である日秀尼さんの長男として生まれ、天下人となった秀吉さんに世継ぎがなかったため、その養嗣子となったもく
秀吉さんから関白の職を譲られ、家督も相続した秀次さんだったけれど、その後、秀吉さんの側室である淀さんが懐妊して秀頼さんが生まれると、秀次さんはきわめて難しい立場に置かれることとなったもく
日頃から残虐で常軌を逸したおこないが目立った秀次さんは、最終的に謀反の疑いをかけられるなどして切腹を命じられ、子女や妻妾ら三十余人も京都三条河原で処刑されてしまったもく
しかし、秀次さんの悪行や謀反の疑いについては、秀頼さんに天下を相続させたい秀吉さんや、その思いを汲んだ者たちによる捏造ではないかという説もあり、秀次さんが切腹した理由についても多くの謎が残っているんだってもく
渡辺勘兵衛の名でも知られる渡辺了さんは、「槍の勘兵衛」と称されるほどの槍の名手で、阿閉貞征さんや羽柴秀勝さん、中村一氏さんらに仕えたのち、増田長盛さんに客将として招かれ、そのまま家老として仕えることとなったもく
関ヶ原の戦いでは、西軍に属して出陣中の長盛さんに代わり、郡山城を守ったもく
戦後、長盛さんは所領を没収され高野山に追放されてしまったんだけど、了さんは「主君の命がなければ守りをとくことはできない」と、一戦も辞さぬ覚悟で開城を拒み、城接収役の藤堂高虎さんたちを困らせたもく
長盛さんからの書状がもたらされ、無事に開城した了さんは、破格の待遇で高虎さんに召し抱えられたけれど、大坂の陣のあと再び浪人となったもく
小西行長さんの遺臣である益田好次さんの子として生まれた天草四郎時貞さんは、幼い頃からカリスマ性をそなえていたとされ、「海面を歩いた」「盲目の少女の視力を回復させた」など、神秘的な逸話ものこされているもく
自身もキリスト教に入信していた時貞さんは、キリシタンの間でカリスマ的な人気を得ており、十代半ばという若さにも関わらず、島原の乱における一揆軍の総大将に擁立されたもく
キリシタン弾圧や飢饉、過重な年貢に苦しむキリシタンや農民たちを率いて原城にこもった時貞さんは、数ヶ月にわたり籠城戦を続けたけれど、やがて幕府軍によって一揆軍は全滅させられ、時貞さんも原城本丸において討ち取られたと伝わっているもく
有馬ジュスタさんは、公卿である中山親綱さんの娘として生まれ、今出川季持さんに嫁ぎ、季持さんと死別したのちに、有馬晴信さんのもとへ嫁いだもく
肥前国日野江藩初代藩主の晴信さんは、キリシタン大名としても有名で、南蛮貿易でおおきな利益をあげていたといわれているもく
しかし、岡本大八事件と呼ばれる疑獄事件で晴信さんは自害することとなり、夫の死後、ジュスタさんは長崎に隠棲したとも、生家のある京都へ戻ったともいわれているもく
信濃国木曾谷の領主である父の木曾義康さんが武田信玄さんに降伏した際、木曽義昌さんは、信玄さんの三女である真理姫さんを正室に迎え、武田家に従属する立場となったもく
しかし、信玄さんが亡くなり武田家が凋落の一途を辿ると、義昌さんは武田家を離れ織田信長さんに仕えるようになり、その後本能寺の変が起こると、一度は北条家を頼ったものの徳川家康さんに寝返り、さらに家康さんと羽柴秀吉さんが対立すると、今度は秀吉さんに恭順したもく
秀吉さんが天下人となり、家康さんが関東に移封されると、義昌さんは下総国阿知戸に一万石を与えられ、頼る相手を変えながら一所懸命に守ってきた木曽谷を離れることとなったもく
西尾宗次さんは初め宮地久作と名乗っていたけれど、父である宮地久右衛門さんが西尾是尊さんという浪人の養子となったため、自身も西尾姓を名乗ることになったみたいもく
高天神城の戦いなどで功を上げ、結城秀康さんに仕えて鉄砲足軽となり、のちに鳥銃頭に取り立てられたもく
大坂夏の陣では、秀康さんのあとを継いだ松平忠直さんの鉄砲組頭として従軍し、多くの首級をあげたといわれているもく
なかでも真田幸村さんを討ち取った功は大きく、徳川家康さんと徳川秀忠さんに拝謁を許され、忠直さんからは刀などを賜り、千八百石を拝領したもく
藤原北家難波家の流れをくむ飛鳥井家は、代々和歌と蹴鞠の師範を家業とする名家で、飛鳥井雅量さんも家伝の和歌と蹴鞠をよく修めたといわれているもく
京の情勢が不穏になると、雅量さんは戦乱を避けて土佐国に下り、親族の一条家のもとに身を寄せ、土佐の豪族である津野定勝さんに蹴鞠の秘儀を教えるなどしたもく
土佐一条家の滅亡後は長宗我部元親さんに招かれ、元親さんや子弟、家臣らに蹴鞠を教えたと伝わっているもく
千々石ミゲルさんは、キリシタン大名の大村純忠さんらの名代としてローマへ派遣された天正遣欧少年使節の四人の少年使節のひとりで、父は肥前国釜蓋城主千々石直員さんもく
ヨーロッパへと渡ったミゲルさんら使節団は、教皇グレゴリウス13世に謁見するなど、各地で歓待を受けたんだってもく
帰国したミゲルさんは、伊東マンショさんら他の少年使節とともにイエズス会に入会したんだけれど、数年後には棄教し、それからはキリスト教に対して批判的な姿勢をとったといわれているもく
-------------------------------------------------------------
今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく
-------------------------------------------------------------
■スクウェア・エニックスサポートセンター
http://support.jp.square-enix.com/contacttop.php?id=1297&la=0
■のろしtwitter
https://twitter.com/noroshi_ixa
-------------------------------------------------------------