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【戦国IXA】5 月の追加武将一覧

新緑の木漏れ日にまぎれて

∩(^з^)∩  こんにちはー

★  のろしもく

 

 

さて 戦国IXA では

 

  5 月 の  追加武将  が 公開されました もく

 

 

追加されるのは

【 極 】 池田恒興さん おつやの方さん 中馬大蔵さん 東郷重位さん

【 特 】 津軽信枚さん 板倉勝重さん 内ヶ島氏理さん

【 上 】 五藤為重さん 

【 序 】 黒田忠之さん

以上の 9 名

 

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池田恒興【 極 】、中馬大蔵 【 極 】、東郷重位 【 極 】 は

2021年8月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

 

中馬大蔵 【 極 】 、東郷重位 【 極 】は 取引不可とのこともく

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池田恒興さんは、織田信長さんの乳兄弟で、母・養徳院さんが信長さんの父・信秀さんの側室になったことで義理の兄弟関係でもあった人物もく

幼少の頃より信長さんの小姓として仕え、織田家が天下へと突き進んでいく著名な合戦の数々では武将として活躍、功績が認められ犬山城主になると、その後も信長さんを支えたもく

本能寺の変後には羽柴秀吉さんと共に明智光秀さんを討ち、織田家の後継を決める清洲会議にはいずれも織田家重臣である出席者四人の中に名を連ね、賤ヶ岳の戦いには参戦せず、去就が注目された小牧長久手の戦いに羽柴陣営として参戦するも、徳川陣営を相手に戦死となったもく

 

 

 

おつやの方さんは、織田信長さんの祖父・信定さんの娘で、信長さんの叔母にあたる人物だけれど、生年は信長さんと同年代だったと考えられていて、織田家当主となった信長さんの意向により東美濃の有力者であった岩村城主の遠山景任さんに嫁いだもく

東美濃織田家、武田家、斎藤家を近隣とする重要地だったことから政略結婚と推測されるが、二人の間に子供が無いまま景任さんが病死してしまったため、信長さんは自身の子である御坊丸さんを遠山家の養子に送り込んだもく

御坊丸さんがまだ幼かったので、おつやの方さんが女城主として当主の座を引き継いだが、東美濃織田家の勢力下になることを良しとしなかった武田家は侵攻を開始したもく

必死に抵抗するも信長さんからの援軍もままならぬ程の窮地に陥ったため、敵将の秋山虎繁さんと結婚するという条件を受け入れ降伏、配下の者達の命は助かったが、織田家を裏切るというこの選択が凄惨な最期へと繋がってしまうもくぅ

 

 

 

島津家に仕えた中馬大蔵さんは強弓を使いこなす大男だったそうで、また、薩摩隼人らしい大胆な逸話を多く残している豪傑もく

薩摩市来地頭だった比志島国貞さんのもとで初陣を飾るとその怪力で活躍したが、一方で粗暴な行動も目立ち、国貞さんとの関係が悪化すると知行と屋敷を没収されて謹慎処分になってしまったもく
しかし、合戦での活躍ぶりや粗暴な行動を打ち消すほどの豪胆さで島津義久さん、義弘さんに気に入られると、謹慎を解かれた後には肥後との国境最前線に配置、厚遇されたもく

関ヶ原の戦いの折には、義弘さんが僅かな兵士で参戦することを農作業中に聞きつけそのまま直ぐに戦地に馳せ参じると、敗戦後の島津の退き口では居場所の目印になるからと義弘さんの馬印を捨てさせ、食料が少なくなってくると食べるのは主君ではなく主君の輿を担いで走る自分だとして奪い取るなど、平時であれば極刑となるような手段も厭わなかったことで主君と共に生還に成功し、その後は天寿を全うしたもく

 

 

 

薩摩藩を中心に継承された剣術で、藩外に伝授することを禁じられたともいわれる「示現流」、その開祖として知られる剣豪が東郷重位さんもく

重位さんは島津家に仕えた家の生まれで、当時の島津家では「タイ捨流」の者が剣術師範を務めており、重位さんも若い頃より学んで皆伝の腕前だったそうもく

そして、島津家が豊臣秀吉さんに敗れた後、義久さんに従って上洛した時に「天真正自顕流」を伝える和尚と出会いその剣術を学ぶと、薩摩に帰った後に二つの流派を掛け合わせたとも考えられる独自の技を磨いたもく

剣の腕前が知れ渡ると島津忠恒さんの御前試合が組まれて「タイ捨流」師範に勝利、以降は剣術師範となって家内や藩内にその技を浸透させたもく

 

 

 

一代で大名に成り上がり津軽藩初代藩主となった津軽為信さんの三男として生まれたのが津軽信枚さん。

関ヶ原の戦いでは東西どちらの勝利になってもお家存続が叶うように図ったと考えられるが、兄は西軍に与し、父と自身は東軍に与して、東軍勝利の戦後には加増2000石を受けたもく

父、兄の死により家督相続となったため、その報告に江戸を訪れた際に、徳川家康さんの側近として幕府にも絶大な影響力のあった僧・南光坊天海さんに弟子入りしたそうで、以後、相続を争ったお家騒動や転封騒動といった窮地を幕府の働きかけによって乗り切るなど、その師弟関係にはかなりの強い結びつきがあったことが想像できるもく

また、天守炎上により祟りの噂も出ていた藩都の鷹岡を、天海さんの助言により弘前と名を改めると、城下町の整備や青森港の開港を行い、今日の青森県の歴史へと繋がっていく礎を築いたもく

 

 

 

板倉勝重さんは、幼少の頃に出家し僧として過ごしていたが、父の戦死、家督を継いだ弟の戦死が相次いだため、その主君であった徳川家康さんの命により還俗して家督を継承したもく

30代後半にしてはじめて武士となったこと、また、僧時代に培った人柄や多くの書物に触れた経験などから、戦場ではなく内政で力を発揮していくと、駿府町奉行江戸町奉行となって活躍したもく

そして、京と周辺の治安維持や朝廷の掌握、西日本諸大名の監視などを目的として江戸幕府が設置した京都所司代に任命されると、柔軟な司法判断で多くの事件を裁いたそうで、中にはねずみによる害の対策として「猫放し飼い令」を発布したというようなこともあったらしいもく

子の重宗さんも京都所司代を継ぎ、父子共に優れた裁きが評判となって「板倉政要」という判例集が後世に伝わったんだってもく

 

 

 

武将達がそれぞれの武や知によって争っていた戦乱の時代、一族滅亡についてもめずらしいことではなかったけれど、その中でも特殊な例として知られる一族の最後の当主・内ヶ島氏理さん。

氏理さんは飛騨の白川郷を本拠としていて、陸の孤島とも評される地の利をいかし、上杉謙信さんや姉小路頼綱さんらの侵攻を撃退していたもく

やがて織田信長さんが勢力を伸ばすと、その配下で越中に本拠を構えていた佐々成政さんに従い、本能寺の変後の小牧長久手の戦いでは成政さんの援軍として越中に出陣したが、留守の間に羽柴秀吉軍の金森長近さんに白川郷を占拠されてしまったもく

内ヶ島家は埋蔵金伝説も残るほど高い鉱山技術を有したといわれ、その影響もあってか秀吉さんに許され白川郷の所領も安堵されたのだけれど、所領安堵の宴のため一族が集まった際に天正地震が発生、周りを囲む山からの土石流により城下町諸共飲み込まれてしまったもく…

 

 

 

尾張黒田に生まれた五藤為重さんは、父の代から縁のあった山内家の一豊さんのもとで活躍したもく

兄・為浄さんと共に一豊さんが出陣した合戦のほとんどに参加、兄は戦死してしまったが自身は戦功を重ね、一豊さんが関ヶ原の戦いの功績で土佐国を与えられた折には、東の要地であった安芸城を預かるまでに至ったもく

また、為重さんには天正地震の際に長浜城から一豊さんの室・千代さんを救出したという逸話があるそうで、兄も戦地で一豊さんの頬を貫いた矢を草履で顔を踏むことも厭わずに抜いて助けたという逸話があり、主君からの信頼の裏には五藤兄弟の古くからの様々な忠義があったことがうかがえるもく

 

 

 

父・長政さんの跡を継ぎ、福岡藩2代藩主となったのが黒田忠之さんもく

祖父・官兵衛さんから続く上流家庭に生まれたためか、苦労知らずでわがままな性格だったといわれており、藩のお金で豪華な大型船を作ったり派手を好む生活を送っていたそうもく

また、旧来よりの家臣を軽んじて自身の側近を重用していたため、ついには長政さん時代からの重臣・栗山大膳さんが幕府に訴えた「黒田騒動」という三大お家騒動に数えられる内紛をまねいてしまったもく

ところがこのお家騒動、死者もなくお咎めもほぼ無い状態で終っていて、今でも黒田親子の関係性、武士のあり方や主従、戦乱から泰平へと移り変わる時代など、騒動の背景について様々な捉え方をされているみたいもく

その後忠之さんは、旧来家臣中心の政治や、幕府への協力に励んだんだってもく

 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

また この他にも

今回5月10日(月)のメンテナンスでは一部武将カードの排出停止が行われているとのこともく

「排出停止武将カードのお知らせ」 

https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n60862c7c9dd7a

 

なお 4月28日(水)から期間限定で登場中の 

「戦国くじ【春】」のラインナップについては メンテナンス前後で変更はないとのこともく

https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n609345bdc60a5

 

 

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【戦国IXA】4 月の追加武将一覧

こんにちはわわわー (。^ε ^。)ノ 

過ごしやすい季節になってきたし 4月ということもあるから 

お部屋の模様替えでもして気分をリフレッシュしようかなと思案中の のろしもく!

 

でも お昼寝が気持ちいい~ 季節でもあるのよね~ 

な♪ の♪ で♪ 今日のところは (˘ε˘ 人 スヤー zzz もく♪

 

さて 戦国IXA では

 

  4 月 の  将  た 

 

追加されるのは

【 極 】 陶晴賢さん 小西行長さん 佐竹義重さん 阿茶局さん

【 特 】 結城晴朝さん 伊東マンショさん 徳川義直さん

【 上 】 都築秀綱さん 

【 序 】 皆川広照さん

以上の 9 名と

 

 

さらに

【 天 】 織田信長さん 今川義元さん

以上の 2 名が 

スキルやステータスを新しくした復刻版として登場するとのこともく

 

 

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佐竹義重【 極 】、阿茶局【 極 】 は 取引不可 で

2021年7月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

 

織田信長【 天 】、今川義元【 天 】 は 取引不可 で

2021年6月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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陶晴賢さんは代々重臣として大内家につかえた家のうまれで美少年だったと推測されており、幼少の頃から、時の大大名であった主君の義隆さんの寵愛を受けたもく

やがて父譲りの武力で「西国無双の侍大将」と称されるほどに成長すると、家内の武断派の中心を担うようになったもく

しかし、尼子家を相手にした月山富田城攻めの敗戦によって義隆さんが軍事を蔑ろにして貴族文化に傾倒していったことに反発、元々の気性の粗さも相まって謀反を起こすと、ついには主君を討つに至り、中国地方の覇権争いに名乗りを上げたのだが、その眼前には次代の覇者・毛利元就さんが立ち塞がったもく

 

 

 

豊臣政権において交渉役などを務め、キリシタンとしても有名な小西行長さんは、商人の出とも元から武家出身だったともいわれるが生い立ちについてははっきりとはしていないみたいで、その存在が確認できるようになった頃は宇喜多家につかえていたもく

主君が織田家に従ったのを機に、秀吉さんに才覚を見出されて舟奉行に任じられると、海の司令官として手腕を発揮したもく

そして、九州平定の戦功によって肥後国加藤清正さんと分け合う形で与えられたのだが、この隣接する領地の関係や、熱心な日蓮宗信者で武断派でもあった清正さんとは馬が合わなかったようで、文禄・慶長の役では先陣を争ったことがつたわっているもく

反対に文治派の石田三成さんとは朝鮮出兵以降通じるところがあったようで、関ヶ原の戦いでは西軍として参戦し斬首の最期となったもく

 

 

 

戦国時代に不遇の名門となっていた佐竹家を一代にして有力戦国大名に押し上げた佐竹義重さんは、その勇猛さから「鬼義重」と恐れられたもく

外交にも長け、家督を継いだ若年期には上杉謙信さんとの協力に成功し周辺勢力を撃破、関東の覇権を北条家と争うに至った折には結城家や宇都宮家との婚姻による同盟や羽柴秀吉さんとの関係を構築することによって窮地を乗り越えると、成熟期には奥州の諸将をまとめ上げ反伊達連合も結成したもく

長男の義宜さんに家督を譲って隠居した後も実権を握っていたそうだけれど、親子ともに毛虫をあしらった兜を着用していたことがつたわっているもく

 

 

 

徳川家康さんがもっとも信頼した女性ともいわれる阿茶局さんは、はじめ神尾忠重さんのもとに嫁いだもののはやくに死別し、その後、家康さんにつかえて側室となったもく

家康さんは聡明で才略にたけた阿茶局さんを寵愛し、たびたび戦場へもともなったといわれているもく

また、徳川秀忠さんの生母である西郷局さんが亡くなると、奥向きの諸事一切をとりしきり、事実上の正室ともいえる存在だったみたいもく

大坂冬の陣にも同行した阿茶局さんは、淀さんの妹である常高院さんと会見して和議を成立させており、奥向きの仕事のみならず、戦場においても家康さんにとって頼りになる存在だったことがうかがえるもく

 

 

 

小山高朝さんの三男としてうまれた結城晴朝さんは、下総結城家の十六代当主である伯父の結城政勝さんに跡継ぎがなかったためその養子となり、政勝さんが病没すると、関東八屋形に数えられる名家の当主となったもく

晴朝さんは、複雑な勢力図が展開される関東の戦国時代を、合戦もふくめた巧みな外交によって乗り切り、小田原征伐の際には豊臣秀吉さんに従って所領を安堵され、さらに徳川家康さんの子であり、秀吉さんの養子となっていた秀康さんを養嗣子として迎えて家督をゆずったもく

すぐれた外交手腕により名門下総結城家の存続をはかった晴朝さんだったけれど、関ヶ原の戦いのあと結城家は越前国へ転封され、さらに姓を松平に改めることとなり、下総結城家の家名は消滅してしまったもく

 

 

 

祖父である伊東義祐さんが島津家の侵略をうけ、まだ幼い伊東マンショさんは家臣に背負われて、キリシタン大名大友宗麟さんがおさめる豊後国に落ち延びたもく

豊後国キリスト教と出会い洗礼をうけたマンショさんは、宗麟さんの名代として天正遣欧少年使節の正使となりローマに派遣されたもく

けれど、マンショさんがローマに携帯した宗麟さんの書状のなかに「不龍獅子虎」という宗麟さんが他で使用した形跡のない署名があり、この書状が偽作であった可能性や、宗麟さんが少年使節の派遣に関与してなかった可能性なども指摘されているんだってもく

帰国後、マンショさんは勉学に励んで司祭に叙階され、キリスト教の弾圧がすすむなか布教活動にいそしんだもく

 

 

 

徳川義直さんは徳川家康さんの九男で、徳川御三家の筆頭として知られる尾張徳川家の始祖となった人物もく

義直さんは家康さんの実子としてその遺訓をよく守ったけれど、家康さんの実子であるという意識が強すぎたためか、歳の近い甥である三代将軍徳川家光さんとたびたび衝突したといわれているもく

藩政については家臣まかせにせず、新田開発や城下町の整備などを積極的におこない、また、学問を奨励し、家康さんの形見として受け継いだ書物や、みずから収集した書物などをおさめる「蓬左文庫」を創設し、それらの書物を門外不出とすることなく公開したもく

 

 

 

今川義元さんの家臣であった都築秀綱さんは、義元さんが敗死した桶狭間の戦いのあと、今川家内が動揺して離反する者も出るなか変わらずに今川家に仕えつづけ、義元さんの子である今川氏真さんから所領安堵の判物を拝領したもく

しかしのちに秀綱さんは、遠江の今川領に侵攻してきた徳川軍に降伏して、徳川家康さんに仕えることとなったもく

徳川家では本多忠勝さんの与力となって数々の合戦で戦功をあげたといわれ、家康さんの関東移封にともない忠勝さんが城持ち大名となると、秀綱さんは付家老に抜擢されたもく

 

 

 

皆川俊宗さんの次男で、下野の皆川城主、栃木城主だった皆川広照さん。

うまれた頃は上杉謙信さんと北条氏康さんが勢力争いを繰り広げていた時代で、北関東の小勢力は生き残りのために双方への従軍や離反を繰り返しており皆川家もまた例外ではなかったもく

広照さんが家督を継いだ頃には、上杉謙信さんが死去、佐竹家の台頭もあって依然として周辺の不安定な状況が続いていたので、中央の織田信長さんや徳川家康さんに接近するなど存続の道を模索したもく

豊臣秀吉さんの天下統一間際には、北条方として小田原城に入っていたが、豊臣方で繋がりを作っていた徳川家康さんに直ぐに降伏したため所領安堵となり、以降は徳川家に従軍して激動の時代を生き抜くことに成功したもく

 

 

 

三英傑のひとりで、織田家を全国一の勢力にした歴史上屈指の名将織田信長さん。

 

 

 

領地経営能力と戦国武将としての才覚を併せ持ち、今川家の最盛期を築いた今川義元さん。

 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】3 月の追加武将一覧

(」>з<)」< こ ん に ち は ー ー ー ! !

のろしもく ヾ(ゝз・)

 

2月の新舞台の開幕から早くも1か月もくね 

春らしい日も増えてきたかなもく

春は出会いと別れの季節ともいわれるけれど

戦国IXAにも 新しい顔ぶれが登場するとのこともく

 

 3 月 の 追加武将 が 公開 されましたもく

 

追加されるのは

【 極 】 竹中半兵衛さん 本多重次さん 天徳寺礼能さん 柳生宗矩さん

【 特 】 武姫さん 九鬼守隆さん 伊集院忠棟さん

【 上 】 桑名吉成さん 

【 序 】 仙石忠政さん

以上の 9 名

 

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天徳寺礼能【 極 】、柳生宗矩【 極 】 は 取引不可 で

2021年6月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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竹中半兵衛さんは、のちに天下人となる羽柴秀吉さんを支えた軍師として有名で、おなじく秀吉さんの軍師である黒田官兵衛さんとともに「両兵衛」などと称されたもく

智略に満ちた逸話が数多くのこされている半兵衛さんだけど、秀吉さんが織田信長さんから、官兵衛さんの子である松寿丸さんを殺すよう命じられた際には、あのおそろしい信長さんの命令にそむいて、松寿丸さんを自らの領地にかくまい命を助けたという逸話も伝わっており、胆力もそなえた智将だったことがうかがえるもく

享年三十六で病没した半兵衛さんは、「千年おゝとり」とよばれる花押を使用しており、その意匠には平和へのおもいがこめられていたといわれているもく

  

 

 

作左衛門という通称から「鬼作左」とあだなされた本多重次さんは、主君徳川家康さんにもはばかりなく諫言し、また戦場においては数十人の敵にかこまれながら、敵兵のひとりが繰り出した槍をつかんで落馬させ、その武士を討ち取ったうえにその馬を奪って逃げおおせたという逸話が伝わっており、「鬼作左」とよばれるのも納得の勇猛さと気性の荒さもく

しかしその一方で、三河三奉行の一人として非常に優秀な行政能力を発揮したといわれており、豪放なだけの人物ではなかったみたいもく

また、陣中から妻へあてた「一筆申す 火の用心 お仙痩さすな 馬肥やせ かしく」という簡潔な手紙は、日本一短い手紙として有名もく

 

 

 

天徳寺礼能さんは大友家の家臣で、「豊後のヘラクレス」と称されるほどの槍の名手であり、またリイノという洗礼名をもつキリシタンでもあったもく

もとは柴田という姓だったんだけど、大友宗麟さんが礼能さんの子である統勝さんに「天徳寺」という姓を与えたことから、礼能さんもその姓を称することになったみたいもく

礼能さんは大友一族に準ずる扱いをうけるほど宗麟さんに寵愛され、島津軍によって丹生島城が包囲された際にも宗麟さんとともに籠城軍にくわわっていたけれど、礼能さんの兄である紹安さんが島津方に寝返ったことにより、みずからも宗麟さんから疑いをかけられていると知った礼能さんは、我が子とともに決死の出陣をして、父子ともに討ち取られてしまったもく

 

 

 

石舟斎の号で知られる柳生宗厳さんを父にもつ柳生宗矩さんは、江戸初期を代表する剣豪のひとりで、その剣の腕は父宗厳さんをしのいでいたともいわれるもく

柳生家は宗厳さんの代に所領をうしない一度没落したといわれているけれど、黒田長政さんの仲介により二十四歳で徳川家康さんに仕えた宗矩さんは、関ヶ原の戦い大坂の陣での功績により父祖伝来の地をとりもどし、さらに徳川秀忠さんの兵法指南役をつとめるなどして加増され、三千石の旗本となったもく

その後も徳川家光さんの兵法指南役となって新陰流を伝授するなどした宗矩さんは加増をかさね、ついには大和柳生藩初代藩主となり、一剣術家の身から大名にまでのぼりつめた稀有な人物となったもく

 

 

 

蒲生氏郷さんの娘、あるいは養妹という説もある武姫さんは、陸奥盛岡藩初代藩主である南部利直さんの正室もく

氏郷さんは、大百足を退治したという伝説をもつ藤原秀郷さんの後裔とされ、武姫さんは、百足退治につかわれたという矢の根を持参して利直さんのもとへ嫁いだといわれているもく

武姫さんが亡くなったあと、そのからだのしたに異様なかたちの変色があらわれ、大百足の怨念をおそれた利直さんが、武姫さんの墓の周囲に堀をめぐらし堀に橋をかけたところ、一夜にして橋が破壊されるということが繰り返しおこったと伝わっているもく

 

 

 

慶長二年に父の九鬼嘉隆さんから家督を継いだ九鬼守隆さんは、徳川家康さんに従って会津征伐におもむき、そのまま東軍として関ヶ原の戦いにのぞんだもく

しかし父の嘉隆さんは西軍に与しており、戦後、守隆さんによる助命嘆願がみとめられたものの、そのしらせが届くよりも先に、はやまった家臣にうながされて嘉隆さんは自害してしまったもく

その後、志摩鳥羽藩初代藩主となった守隆さんは、大坂の陣でも九鬼水軍を率いて功をたて、その際、船の上廻りまで木や竹で装甲した潜水艦のような軍船を使用したという文献がのこされているもく

 

 

 

古くから島津家に仕えた家柄で、自身も筆頭家老を担った伊集院忠棟さんは、国賊とも島津家滅亡を救った忠義の者とも評される人物もく

細川幽斎さんと親交があり豊臣家のことを知っていたため、秀吉さんの九州征伐の折には早い段階で降伏の姿勢を見せ敗戦処理でも活躍し、その功績により戦後には島津家にも匹敵するような待遇を与えられて、豊臣政権との交渉役もつとめるようになったもく

これを面白く思わなかったのは当然島津家で、忠棟さん自身が次第に野心を抱いたという見方もあるが、島津忠恒さんによって殺されてしまったもくぅ

熱心な一向宗門徒だったそうで、石山本願寺を訪れた際には、親鸞さんの木像を所望し持ち帰ったという逸話が伝わっているもく

 

 

 

桑名吉成さんは、長宗我部家臣として元親さんの四国統一で活躍したことがみとめられ中村城代に任命されたもく

元親さんが秀吉さんに降伏したのちの豊臣家の九州征伐では、主君とともに参戦したものの島津家の前に大敗、この際、落ち武者狩りからの撤退を成功させた手腕に元親さんは大層感銘を受け、後継の盛親さんに合戦では吉成さんを先手とせよと遺言したと伝わるもく

関ヶ原の戦いでは盛親さんに従い西軍として参戦、敗戦により長宗我部家が改易となると、吉成さんは東軍方にも伝わっていた好評により藤堂高虎さんに召し抱えられたもく

そして大坂の陣で様々な思いが交錯していたであろう中、かつての主君盛親さんが率いた軍と戦い敗死したもく

 

 

 

羽柴秀吉さんのもとで一代にして立身した秀久さんの子として生まれた仙石忠政さんは、秀吉さん没後には父とともに徳川家康さんに従い、関ヶ原の戦いでは東軍として上田城の戦いに参加、この時の活躍によって徳川秀忠さんの「忠」の字を拝領したもく

父の死去によって跡を継ぐと戦後荒廃していた信濃小諸藩の農村復興に注力し、大坂の陣での戦功によって上田藩への移封がみとめられると、様々な政策を講じて領地安定を図り、関ヶ原の戦い後の処置によって破壊されていた上田城の復興にも着手したもく

 

 

 

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出会いがあれば別れも

今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

※戦国くじ【祝】には 2021年3月7日(日)23:59までのくじ表示期間中
 明智光秀【天】、初【天】、江【天】が引き続きラインナップに含まれるとのこともく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】2 月の追加武将一覧

こんにちは (ヾノ^з^)ノシ のろしもく

 

新舞台『 虚星封天 ~不俱戴天の烈将~ 』 での

初合戦の日が近づいてきたもくね! 

 (・з・σ)σ 初合戦相手国発表は 2月19日(金)予定

 

内政や新戦力の育成は進んでいるかなもく?

 

新戦力といえば 先日登場した新天に続いて

noroshi-sengokuixa.hatenablog.com

 

新戦力候補が戦国IXAに加わるみたいなのでご紹介しますもくー

 

 2 月 の 追加武将 が 公開 されましたもく

 

追加されるのは

【 極 】 本願寺教如さん 妙林尼さん 土居清良さん アルメイダさん

【 特 】 別所長治さん 森長可さん 毛利新介さん

【 上 】 渡辺糺さん 

【 序 】 海北友松さん

以上の 9 名

 

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土居清良【 極 】、アルメイダ 【 極 】 は 取引不可 で

2021年5月上旬予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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本願寺教如 さんは、浄土真宗本願寺派第11世宗主である顕如さんの長男として生まれ、本願寺織田信長さんのあいだで合戦が始まると、顕如さんを支え、10年以上にわたり信長さんを苦しめたもく

朝廷の仲介により信長さんと講和を結んだ顕如さんが石山本願寺から紀州鷺森に退去した後も、徹底抗戦を主張する教如さんは、和議を不服とする信徒らとともに石山本願寺に数ヶ月間籠城し、近衛前久さんの説得によりようやく本願寺を信長さんに明け渡したもく

豊臣秀吉さんが天下人となり、顕如さんが病没すると、一度は秀吉さんの朱印状を得て教如さんが本願寺を継承したものの、後に秀吉さんから、弟である准如さんに本願寺法主を譲るよう命じられ、教如さんは退隠させられたもく

しかし秀吉さんが亡くなると、教如さんは徳川家康さんから京に四町四方の寺地を寄進され、本願寺は、教如さんの東本願寺准如さんの西本願寺とに分裂することとなったもく

  

 

 

大友家の家臣である吉岡家に嫁いだ 妙林尼 さんは、耳川の戦いで夫の吉岡鑑興さんが戦死したため、出家して尼となったもく

九州統一の総仕上げとして大友家の所領に侵攻した島津家は、次々と豊後各地を制圧し、大友宗麟さんが籠城する丹生島城に迫り、妙林尼さんが籠もる鶴崎城にも攻略の兵を向けたもく

鶴崎城主である吉岡統増さんも主力の兵を率いて丹生島城に籠城していたため、統増さんの母である妙林尼さんが老兵や農民などを指揮して見事に鶴崎城を守りきったもく

妙林尼さんは十六度に及ぶ島津軍の攻撃をはねかえしたといわれ、その知略と武勇に感心した豊臣秀吉さんがぜひとも面会したいと申し出たけれど、妙林尼さんはその申し出を断ったと伝わっているもく

 

 

 

伊予宇和郡三間に生まれた 土居清良 さんは、大友家の侵攻によって祖父や父をうしない、幼少期を土佐一条家で過ごすこととなったもく

やがて伊予に帰還し大森城主となった清良さんは、西園寺家に属して、大友家や長宗我部家などの侵攻を防ぎ、のちに西園寺十五将のひとりに数えられるようになったもく

清良さんの一族である土居水也さんが記した「清良記」には、清良さんと領内の農巧者である松浦宗案さんの問答などが収録されていて、日本最古の農書といわれることもあるみたいもく

  

 

 

 ポルトガルに生まれた アルメイダ さんは、医師免許を取得したのち、商人として1552年に肥前国平戸を訪れ、日本とマカオを行き来して莫大な財産を築いたもく

日本で宣教師たちと出会ったアルメイダさんは、貧しい人々のあいだで頻繁におこなわれていた赤子殺しや間引きに心を痛め、私財を投じて豊後府内に乳児院や総合病院を建て、さらに「憐れみの聖なる家」といわれるキリスト教徒の互助組織も発足させたもく

アルメイダさんは神父としての活動も行いながら、病院などの資金調達のため貿易への投資も続け、さらには九州全域をまわっての医療活動も行うようになり、病人や乳児、貧しい人々に尽くしたといわれているもく

 

 

 

別所長治さんは、祖父の代で主家・赤松家の衰退と入れ替わるように戦国大名化に成功し、三好長慶さんと争うなど東播磨で勢力を誇っていた別所家を若くして継いだもく

織田信長さんが台頭し始めると早くから従ったそうで、中国の毛利攻めの折には、両者の中間地に位置する播磨で力を有していたことから頼りにされたそうだが、突然離反してしまうもく

この裏切りの理由については、家内の対立構造によるもの、周辺勢力分析によって勝ち馬に乗るための判断、将軍・足利義昭さんや毛利家による工作など諸説考えられているが、結果として、「三木の干殺し」と呼ばれる羽柴秀吉さんからの2年にも及ぶ壮絶な兵糧攻めを受けることになり、妻子兄弟と共に自害となってしまったもくぅ

 

 

 

森蘭丸さんの兄の森長可さんは、弟同様に織田信長さんに大層可愛がられていたと伝わる人物もく

「攻めの三左」と称された父・可成さん譲りの腕前と、人間無骨と彫られた槍を武器に活躍して「鬼武蔵」の異名が知れ渡ったのだけど、かなり気性が荒く血気盛んだったそうで、規律や命令違反も少なくはなく、時には些細な理由で敵でもない相手を斬り殺すこともあったようだが、信長さんは大事にしなかったとのことからもその寵愛ぶりが伺えるもく

一方で、書や茶道を好み、内政にも積極的であったという一面も伝わっているもく

 

 

 

毛利新介さんは、織田信長さんの馬廻として仕え、あの桶狭間の戦いにおいて今川義元さんを討ち取ったことで知られているもく

義元さん最期の意地により指を噛み千切られたといわれているが、以降も信長さんの戦いに参加、しかし戦地で目立って名を挙げることはなかったみたいもく

次第に役人として重用されると尺限廻番衆として信長さんの文書管理などで活躍。

本能寺の変の際も主君の側近として京に滞在するが、織田信忠さんと共に二条城にて討死したもくぅ

 

 

 

渡辺糺さんは、豊臣秀頼さんに仕え指南役を担った槍の名人で、「内蔵助流槍術」の祖ということが伝わっているもく

母が淀さんの側近で秀頼さんの乳母を務めたことに加えて、秀頼さんが花見に出かけた際に巻き込まれた揉めごとを得意の槍によって解決したことなどから、家内でも発言力を有する存在になっていったもく

大坂冬の陣では、豊臣方の中心人物のひとりである大野治長さんと言い争いをするなど勇んだが、敵の上杉景勝さん相手に大敗し嘲笑の的になり、夏の陣で挽回しようと奮戦したが及ばず果てたもく

 

 

 

海北友松さんは浅井家の重臣であった綱親さんの子として生まれたが、主君と父が織田信長さんに敗れ戦死したことを機に京の東福寺に入り僧侶となったもく

その際に室町時代から江戸時代にかけて画壇の中心であった狩野派を学んだとされ、さらには茶道も学び文化人との親睦を深めたもく

還俗し武家再興を目指したが、次第に画家としての才を認められ戦乱の世を生き抜くと、時代を代表するひとりとして晩年には画業に専念するようになっていたそうで、「龍の名手」とも称されたような迫力のあるものから、入念に書き込まれた花の絵や、やわらかくしっとりとした画風のものまで多彩な作品の数々が今日にも残されているもく

 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】「 虚星封天 ~ 不俱戴天の烈将 ~ 」 新天情報

こんにちは!のろしもく! ヽ(。・`з・。)ゝ どどーん☆

昨日は関東に春一番が吹いたみたいだけど

まだまだ寒い日や地域 時間帯もあって 春はもう少し先かなと思う今日この頃ですが

こちらはすでにあっつあつで 一足先に新シーズンの訪れもく!!

 

2021 年 2 月 5 日( 金 )

  戦国IXA  新たな舞台が開幕・・・!

【  不俱戴天の烈将~ 

 

 ↓↓  新たな舞台の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/new_season/

 

新たな舞台の大殿 そして

新【 天 】カードとして 

戦国IXAに新風を吹かせるのはこちらの12名もく

 

 

足利義昭さんは、室町幕府15代目にして最後の将軍もく

将軍家の次男であったため慣例によって出家していたのだけれど、衰えた幕府の権勢を取り戻すべく奮闘していた13代将軍で兄の義輝さんが暗殺され、状況が一転。

自身が将軍職を継ごうと決心するも戦乱の世となり各地の大名からの助力も得られず苦慮する中、新進気鋭で飛躍していた織田信長さんの助けにより上洛に成功して将軍になれたもく

信長さんを味方につけたことで盤石かと思いきや、将軍職が軽んじられるようになると双方の関係は次第に不和になり、天下人へと邁進する信長さんに対して周囲の勢力と包囲網を築いて戦い苦しめたが、敗れて追放されてしまったもく

 

  

 

本願寺顕如さんは浄土真宗本願寺派第11世宗主で、石山本願寺を総本山として最盛期を迎えていた一向宗を率いたもく

門徒の団結力や権力者に抗う者への影響力は非常に強く、全国の一向一揆は各地の大名をも恐れさせ、その存在感は武将達が活躍する戦国時代の中でも異彩を放ったもく

時を同じく力を伸ばしていたのが織田信長さんで、はじめ顕如さんも良い関係を築こうとしていたものの、次第に関係性は悪化。

将軍・足利義昭さんが信長さんと対立したことに呼応し包囲網に加わると、義昭さんが追放された後も織田家を苦しめ、実に10年以上にも及ぶ戦いは信長さんの天下統一を大いに遅らせたもく

 

 

 

父の死によって若くして家督を継いだ安東愛季さんは、先代の悲願でもあった一族の統一を果たし、安東家の戦国大名化を成功させた英雄もく

その後は、旧来より行っていた蝦夷との交易に加え河川交易などを整備し、土崎港を北日本最大の港湾都市へと発展させて、勢力を伸ばしたもく

また、織田信長さんや豊臣秀吉さんなど時の権力者と都度交流を図り、中央と良い関係を構築することで一層の安定をもたらして出羽北部で最大版図を誇ると、その様は北の空に輝く北斗七星のようだと評されたもく

 

 

 

南部晴政さんは、南部家第24代当主なのだけどその相続については諸説あり、南部家が内部対立を繰り返していた歴史があって、自身も後継者争いを残して世を去るなどした影響もあるのか、資料が乏しいらしいもく

ただ、そんな中でも晴政さんは戦国大名として傑出した人物だったようで、着実に版図を広げると、陸奥国北部の南部領は通り抜けているうちに三日月が満月になってしまう程に広大だと例えられるに至ったもく

地方で力を誇示するためには必要な素養なのか、抗争することもあった近隣の安東愛季さん同様に中央ともうまく付き合い、また、懐が深い人物だったことがうかがえる逸話も残されているもく

 

 

 

平安時代以来の名家でありながら、戦国時代の頃にはその威光も陰って常陸統一もままならず燻っていた佐竹家であったが、18代当主の佐竹義重さんの登場によって状況が変わったもく

義重さんは「鬼義重」と恐れられた程の武に加えて外交戦略にも長け、上杉謙信さんと協力し関東の諸勢力を撃破して戦国大名としての力を示したもく

さらに、最新の冶金技術導入による豊富な資金力で関東一の鉄砲隊を作ると、同じ時期に勢力を伸ばしていた北条家と関東の覇権を争い、伊達政宗さんとは奥州を舞台に激しい戦いを繰り広げるなどその名を轟かせ、豊臣政権下になると、かねてより親しかった秀吉さんの後押しもあって常陸統一を果たしたもく

 

 

 

里見家を戦国大名として躍進させた父・義堯さん同様、北条家と徹底対立して関東の覇を競った里見義弘さん。

伝統である上総・安房の海賊衆を基盤とした屈強な水軍勢力を巧みに操り強大な敵を苦しめるなど里見家最盛期の舵を取ったもく

対北条家の戦いである第二次国府台合戦にて大敗し一時勢力を失うも、三船山合戦で挽回。

協力関係にあった上杉家が北条家と同盟を結んだ後も、武田家との外交などを模索し対立を続けたが、父の死後の天正5年、ついに北条家と和議を結ぶことになったもく

 

 

 

大き過ぎる父・信玄さんの存在に加え、織田・徳川連合に大敗した長篠の戦いや武田家滅亡を招いた印象から今もって評価が分れる武田勝頼さん。

庶子の生まれで武田家代々の通字である「信」の字も継承していない立場であったが、兄達が廃嫡、病弱、早世だったために後継者に指名されると、信長包囲網参加途中だった父が亡くなり家督を継ぐことになったもく

当主となった後は次々と織田家領地の城を陥落させて、信玄さんも落とせなかった徳川家の重要拠点・高天神城も攻略。

父を凌駕する程の勢いは信長さんを恐れさせ、上杉謙信さんも一目を置いたと伝わり、また、その強さが傲慢となって大敗に繋がってしまったという見方もあるようだけれど、長篠の戦い後も威信回復を狙って最大版図を築くなど、近年では評価の声も大きくなっているもく

 

 

 

加賀百万石の礎を一代にして築き上げた前田利家さんは、尾張土豪の生まれで、立身出世のために織田信長さんの小姓として仕えたもく

若い頃は喧嘩や派手なことが好きなかぶきものとして知られており、うつけものといわれていた信長さんとも通じるところがあったのかとても可愛がられると、自慢の槍と腕っ節で戦功を重ね寵愛に応えたもく

主君が天下に名を轟かせることに合わせるように自身も出世をしたが、本能寺の変が起り、長く従い恩義ある柴田勝家さんと、小姓時代からの親友であった羽柴秀吉さんの間で後継者争いが勃発。

信長さんから追放されてなお滅私奉公によって許されたこともある程の忠義の人であった利家さんとしてはどちらに付くも苦渋の決断であったが、秀吉さん側に付いたことが天下人への後押しとなり、豊臣政権下では五大老を務めるに至ったもく

 

 

 

雑賀孫市さんは、雑賀衆の有力者やまとめる立場の者が代々名乗った名前らしく歴史上複数存在したそうなのだけど、中でも有名なのが、石山合戦にて本願寺顕如さんと共に戦い、長期に渡って織田信長さんを苦しめた人物もく

雑賀衆の成り立ちは、紀伊半島の山々、太平洋、瀬戸内海で働く人々の相互扶助の集まりだったといわれており、様々な職人の存在や豊富な資源、貿易ノウハウなどを活用出来たため早くから鉄砲の大量生産が可能だったそうで、戦地において鉄砲の重要度が増してくると、射撃技術も備えた雑賀衆は最強集団として名を馳せるようになったもく

そんな最強集団を優れた戦略や得意のゲリラ戦を駆使して統率した孫市さんは、本願寺勢の下間頼廉さんと並び「大坂之左右之大将」と称されたもく

 

 

 

戦国の三梟雄や中国地方の三大謀将に数えられ、弟からも兄に会うときには鎖かたびらを付けると警戒された宇喜多直家さん。

その人物像の形成には、良家の生まれでありながら幼少期に祖父が暗殺され没落し、不遇の時を過ごしたことが影響していると考えられているもく

幼くして父も失い後ろ盾もない状況から生き抜いていくために残された手段は謀略。

浦上家に仕え、信頼関係を築いた上での暗殺や娘の婚姻関係を利用しての謀殺などを繰り返し勢力を拡大すると、ついには主君をも飲み込み下克上を達成、返り咲くにとどまらず有力戦国大名として台頭したもく

また、非道と恐れられた一方で、家臣は大切にし、家臣からは信頼されていたという話もあるみたいもく

 

 

 

肥前有馬晴信さんは、兄が早世したため幼くして家督を継いだが、周辺では龍造寺家が力を伸ばしていて度々脅威にさらされていたもく

そこで頼ったのが父が洗礼を受けていたキリスト教で、自身はキリシタンを毛嫌いしていたが驚異に対抗する手段としては申し分なく、元々南蛮貿易には積極的でありキリシタンの協力を得ることでさらに利益が安定、海外の最新武器も仕入れて勢力を伸ばすと、島津家と共闘した沖田畷の戦いにて龍造寺家を撃破したもく

その後、豊臣秀吉さんの九州平定において豊臣方を選んだことで家を守ることに成功。

また、当初は手段としてのキリスト教選択であったが次第に深い信仰へと変わっていき、豊臣政権下でのバテレン追放令の際には彼らを匿うなど、今日ではキリシタン大名を代表するひとりとして知られているもく

 

 

 

肥後の相良義陽さんも、大友家、島津家、龍造寺家といった強豪ひしめく時代に活躍した人物で、家督継承後の内乱を収めた後、周辺勢力に対抗しようと奮闘したもく

独立を保つために大友家や島津家との接近や対立を繰り返したが、いよいよ島津家の力が強くなり降伏。

島津家からの命令が下され対する相手は、不可侵の誓いを交わしていた盟友・甲斐宗運さんがいる阿蘇家で、お家存続と友情の狭間で導き出したのは死地に陣を張っての玉砕、双方に義を示しての最期となったもく

また、強力な敵に抗うために必要なことであったのか、あるいは根っからの義将なのか、幕府や朝廷を重んじて献金も厭わなかったことから、将軍・足利義輝さんから名前に「義」の字を賜っているもく

 

 

それぞれどんな活躍をしてくれるのか楽しみもくね (〃^ε ^〃)わくわく

 

 

なお

足利義昭【 天 】 本願寺顕如【 天 】  については取引不可とのこと

 

 

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今回の武将追加時に下記の武将カードは一部くじより排出停止とのこともく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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