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【戦国IXA】2024 年 4 月の追加武将一覧

∩^з ^)∩ こんにちはーーーのろしですもく

 

だいぶ過ごしやすくなってきて

お散歩がてら新しいごはん屋さんを開拓するのが楽しい今日この頃もくね

「(・ε・。)キョロキョロ(「・з・)

 

なにかと新しい出会いの多い季節ですが

戦国IXA にも新しい顔ぶれが登場もく

 

 

 4月 追加武将公開されました もく

 

 

追加されるのは

【 極 】 井伊直孝さん 南部信直さん 加藤段蔵さん さこの方さん

【 特 】 三好長逸さん 遊佐長教さん 三好義興さん

【 上 】 進藤貞治さん 

【 序 】 丹羽氏重さん

以上の 9 名

 

 

そして

明智十兵衛さん 細川幽斎さん 和田惟政さん

以上の 3 名 がそれぞれ

新規イラストでの 【 天 】 と 

スキルやステータスを新しくした

イラスト復刻版の 【 極 】 で 登場するとのこともく

※【 極 】明智十兵衛 は『 No.2924【 極 】明智光秀 』の復刻版もく

 

 

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加藤段蔵【 極 】、さこの方【 極 】、

明智十兵衛【 天 】【 極 】、細川幽斎【 天 】【 極 】、和田惟政【 天 】【 極 】は

取引出品・譲与不可で

2024年7月予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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明智光秀の名でひろく知られる 明智十兵衛 さんは、本能寺において主君の織田信長さんを討ったことや、羽柴秀吉さんとの決戦に敗れて生涯を終えたことなど、その後半生ついてはよく知られているけれど、出自や前半生についてはあまり詳しいことがわかっていないもく

美濃国の生まれと考えられる十兵衛さんは、越前国朝倉義景さんに仕えていた時期があり、その頃、京を逃れて朝倉家を頼った足利義昭さんと接点を持ち、その後、朝倉家には上洛の意志がないと見た義昭さんが織田信長さんに興味を示すと、十兵衛さんが織田家との交渉役を務めたといわれているもく

室町幕府の再興を目指す義昭さんが朝倉家を離れて織田家に身を移すと、十兵衛さんも家臣として義昭さんに付き従ったもく

その後、信長さんにも仕えるようになって次第に重用されはじめた十兵衛さんは、義昭さんと信長さんの関係が修復困難なほどに悪化すると、義昭さんと袂を分かち、信長さんにのみ仕えるようになったもく

 

 

 

 

 

 

足利将軍家に仕える三淵晴員さんの次男として生まれ、細川晴広さんの養子となった 細川幽斎 さんは、主君の足利義輝さんが三好三人衆らに討たれると、兄の三淵藤英さんらと協力して、義輝さんの弟である覚慶(のちの足利義昭)さんを奈良の興福寺から救い出したもく

幕府再興を目指す義昭さんに付き従った幽斎さんは、義昭さんを将軍に就かせるべく奔走し、織田信長さんの協力によって義昭さんの将軍就任は実現することとなったもく

しかしその後、次第に義昭さんと信長さんの対立が深まっていくと、幽斎さんは義昭さんと袂別して信長さんに仕える道を選んだもく

時勢を見る眼力にすぐれた幽斎さんは、その後も権力の移り変わりを鋭く見通し、判断をあやまることなく天下人たちに仕え、肥後熊本藩細川家の礎となったもく

 

 

 

 

 

 

室町時代後期に幕府がおこなった六角家討伐の戦いにおいて、六角家に味方した甲賀地侍五十三家を「甲賀五十三家」と称し、和田惟政 さんの生まれた和田家は、その五十三家の中でも特に軍功のあった「甲賀二十一家」に数えられているもく

しかし、惟政さんが生まれた頃の和田家は足利家に仕える幕臣となっていたようで、惟政さんも足利義輝さんに仕えていたみたいもく

義輝さんが三好三人衆らによって暗殺されると、惟政さんは細川藤孝さんらと協力して、奈良の興福寺から覚慶(のちの足利義昭)さんを救出し、甲賀の自邸に迎えて匿ったもく

その後も義昭さんを支え続けた惟政さんは、織田信長さんの援助によって義昭さんの将軍就任が実現すると、義昭さんから「摂津三守護」のひとりに任命されるなど幕臣として活躍する一方、信長さんからも重用されたようで、織田家の家臣として活躍した形跡も見られるもく

 

 

 

徳川四天王や徳川三傑に数えられる井伊直政さんの没後、長男の井伊直勝さんが家督を継いで彦根藩主となり、直勝さんの異母弟である 井伊直孝 さんは徳川秀忠さんに近習として仕えたけれど、大坂の陣には、徳川家康さんの命によって直孝さんが井伊家の大将として参陣し、のちには井伊家の家督を継ぐことも命じられたもく

その大坂の陣において井伊軍は、まず冬の陣で真田信繁さんの策にはまり大敗を喫したけれど、夏の陣で藤堂軍と共に先鋒を務めると、木村重成さんや長宗我部盛親さんを撃破する武功を挙げ、冬の陣での雪辱を果たしたもく

大坂の陣での活躍により「井伊の赤牛」の異名を取った直孝さんは、後年、死期が近づく秀忠さんの枕元に呼ばれて徳川家光さんの後見役に任じられ、譜代大名の重鎮として晩年まで幕政に参画したもく

 

 

 

南部家中興の祖といわれる 南部信直 さんは、南部家二十三代当主南部安信さんの弟である石川高信さんの子として生まれ、安信さんの跡を継いだ南部晴政さんに男児がいなかったため、晴政さんの娘婿となり、養嗣子として三戸城に迎えられたもく

その後、晴政さんに南部晴継さんという実子が誕生したことで、一度は家督の相続を辞退せざるを得なくなった信直さんだったけれど、晴継さんが夭折したために相続問題が起こり、南部家一門の北信愛さんや八戸政栄さんの推挙により、南部家二十六代当主となったもく

中央では本能寺の変が起こり、勢力図がどのように塗り替えられていくのか見極めの難しい情勢となっていたけれど、信直さんは信愛さんの進言により、かなり早い時期から秀吉政権への臣従を選択し、大名としての南部家を守ることに成功したもく

 

 

 

忍術や幻術に優れた忍びだったとされる 加藤段蔵 さんは、跳躍に関する能力が超人的であったため「飛び加藤」と称されたもく

あるとき段蔵さんは越後国春日山城下において牛を呑む幻術などを披露して噂を広め、上杉謙信さんに謁見する機会を得たもく

謙信さんから上杉家重臣の屋敷にある秘蔵の薙刀を盗み出してみせるよう命じられ、段蔵さんは難なく盗み出すことに成功したけれど、その異能を危険視されて、仕官どころか命を狙われることとなり、越後国外へ逃れたといわれているもく

その後、甲斐国甲府城下に姿をあらわした段蔵さんは、武田晴信さんにも幻術を披露して警戒され、武田家中の者に暗殺されてしまったといわれているもく

 

 

 

播磨国龍野城主である赤松政秀の娘として生まれた さこの方 さんは、織田信長さんの養女として室町幕府十五代将軍足利義昭さんの側室となり、足利義尋さんを産んだもく

さこの方さんは側室であったけれど義昭さんには正室がいなかったため、義尋さんは将軍家の後嗣として養育されたもく

しかし、義昭さんと信長さんとの関係は悪化の一途をたどるようになり、ついに義昭さんは槇島城において挙兵、その後、織田軍に包囲されて降伏し、義尋さんを人質として信長さんに差し出したもく

このとき、さこの方さんも信長さんのもとへ向かったとされ、のちに二条昭実さんに再嫁したと伝わっているもく

 

 

 

武力によって中央政権を築いた三好長慶さんを三好一族の長老格として支えた 三好長逸 さんは、おなじく三好一族である三好政康さん、岩成友通さんとともに「三好三人衆」と呼ばれ、三好政権において松永久秀さんと双璧をなしたとされる人物もく

長慶さんが病死し、幼少の三好義継さんが当主となると、長逸さんら三好三人衆は、将軍の足利義輝さんを暗殺したのち、足利義栄さんを将軍に擁立して三好政権の傀儡としたもく

しかしその後、三好三人衆と久秀さんが権力をめぐって対立を深めるなど、三好政権にほころびが見えはじめると、足利義昭さんを擁立する織田信長さんの中央進出を許すこととなり、三好家の勢力は消滅してしまったもく

 

 

 

鎌倉時代から畠山家に仕え、室町時代の初期より代々河内守護代を務める遊佐家に生まれた 遊佐長教 さんは、畠山稙長さんに仕えていたとみられるけれど、幕府の実力者である細川晴元さんとの対立姿勢を崩さない稙長さんを紀伊へ追放し、稙長さんの弟である畠山長経さんを擁立したといわれるもく

その後も主君の追放や擁立などを繰り返しながら晴元支持の立場を取った長教さんだったけれど、やがて晴元打倒を掲げる細川氏綱さんと結んで勢力拡張を図るようになり、一度は晴元さんを丹波国へ逃亡させたものの、のちに逆襲されて晴元陣営の三好長慶さんに敗北を喫したもく

和議の際に、長慶さんに娘を嫁がせた長教さんは、長慶さんが晴元さんに反旗を翻すと、長慶陣営として参戦し、晴元政権の崩壊、そして三好政権の樹立に貢献したもく

 

 

 

三好政権を樹立し「日本の副王」と称された三好長慶さんを父に持つ 三好義興 さんは、将軍足利義輝さんからその教養や人柄を愛されていたといわれ、偏諱を受けて「義長」と名乗った時期もあるもく

父に劣らぬ知勇の持ち主で、六角軍や畠山軍との戦いにおいても見事な武勇を発揮した義興さんは、長慶さんの後継者として将来を嘱望されていたけれど、父に先立って二十二歳の若さでこの世を去ったもく

その死については、三好家の重臣である松永久秀さんによる毒殺という説もあるけれど、病による死という見方が有力みたいもく

 

 

 

南近江の戦国大名六角家に仕える進藤家は、おなじく六角家の家臣である後藤家とともに「六角の両藤」と称され、進藤貞治 さんは六角高頼さんや六角定頼さんに仕えて家中で重きをなしたもく

「六角六宿老」のひとりにも数えられる貞治さんは、将軍足利義晴さんと細川晴元さんの和睦の仲介や、豊後国大友家との折衝など、特に外交面で優れた手腕を発揮したといわれているもく

京で日蓮宗徒による法華一揆が起きた際、延暦寺に味方すべく軍勢を率いて上洛する定頼さんに付き従った貞治さんは、武勇の面でも人後に落ちない働きを見せて法華宗を撃ち破ったといわれるもく

 

 

 

織田家に仕えた尾張国岩崎城主丹羽氏次さんは、本能寺の変のあと織田信雄さんに仕えたけれど、のちに徳川家康さんの家臣となり、小牧・長久手の戦いでは、岩崎城を弟の 丹羽氏重 さんに預けて徳川軍に加わったもく

氏重さんが留守を預かった岩崎城は戦場の近くにあり、合戦が膠着状態となる中、小城である岩崎城を黙殺するかのように池田恒興さん率いる奇襲部隊が付近を通過することに気づいた氏重さんは、これを見過ごしては末代までの恥であると言い、大軍に対して果敢に攻撃を仕掛け、徳川方に敵軍の存在を気づかせたもく

反撃に転じた池田軍を相手に氏重さんはよく戦ったけれど、圧倒的な兵力の差はどうしようもなく、十六歳の若さで討ち死にしたもく

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】2024 年 3 月の追加武将一覧

冬と春が激しい攻防を繰り広げる季節なので

体調などいかがでしょうかもく?

のろしは元気ですっ こんにちはもく (((= ´ σз`)ノ

さてさて

 

 

戦国IXAでは

 

 3月 の 追加武将 が 公開されました もく

 

 

追加されるのは

【 極 】十河一存さん 豊臣秀長さん 梅津憲忠さん 五郎八姫さん

【 特 】松倉重政さん 吉良親実さん 桂林院さん

【 上 】成富茂安さん 

【 序 】穂井田元清さん

以上の 9 名

 

 

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梅津憲忠【 極 】、五郎八姫【 極 】は

取引出品・譲与不可で

2024年6月予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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十河一存 は、三好元長さんの四男に生まれ、兄には三好長慶さんがいたもく

讃岐の国人・十河景滋さんの養子となってからも兄をよく助け、当時絶大な力を有していた細川晴元さんの政権を崩壊させることになる摂津江口の戦いで活躍し、長慶さんの政権確立を後押ししたもく

また、猛将として知られており、ある時合戦で腕に大怪我を負うも、傷口に塩をすりこみ消毒をして何食わぬ顔で戦い続けたため、敵からは「鬼十河」と恐れられ、後世には「十河額」と呼ばれたその髪型を真似する者が出るなど、語り継がれる勇猛さだったそうもく

兄に従順だったけれど唯一受け入れられなかったのが、長慶さんが重用した松永久秀さんの存在で、馬が合わなかったと伝わっており、一説では一存さんの死に久秀さんが関与したという話もあるらしいもく

 

 

 

こちらも時の支配者へと躍進していく兄に多大な貢献をしたことで知られる 豊臣秀長 さんもく

秀長さんの兄は三英傑のひとり豊臣秀吉さんで、秀吉さんがまだ木下藤吉郎と名乗っていた時代から右腕となって、その出世街道に寄り添ったもく

秀吉さんとは対照的に温和な性格だったようで、多くの人に好かれて、一癖も二癖もある豊臣家臣団をよくまとめ、外交においても一目を置かれていたもく

秀吉さんの天下統一直後に亡くなってしまうのだけど、織田信長さん亡き後の秀吉さんに対して、異を唱えたり諫めることができた数少ない人物のひとりでもあったため、秀長さんがもっと長生きしていれば豊臣の天下は安泰だったのではないかと評価する声は少なくないもく

 

 

 

梅津憲忠 さんは、宇都宮家に仕えていた父が浪人となったため、非常に貧しい幼少期を過ごしていたもく

苦難の時代に生活や勉学の世話をしてくれたのが佐竹家分家の義憲さんで、その恩に感銘を受けて、義憲さんから偏諱を所望し憲忠と名乗るようになったそうもく

その後、佐竹家本家の義宣さんに登用されるとめきめき頭角を現し、側近として重用されていったもく

大坂の陣では「佐竹の黄鬼」と称されるほどの武勇を有した一方で、藩政を支える政治手腕も大変優れていたため義宣さんからの信頼も厚く、憲忠さんの活躍によって梅津家は幕末まで代々家老を輩出する家柄になっていくもく

 

 

 

伊達政宗さんの長女である 五郎八姫 さんは、政宗さんの正室・愛姫さんとの間においては、結婚十五年目にして授かった待望の第一子だったもく

大名である政宗さんには当然跡継ぎ問題があるため、男子を期待し男子名しか考えていなかったそうで、そのまま男子名である五郎八と名付けられたといわれているもく

徳川家の天下取り事業の一環として家康さんの六男・松平忠輝さんと結婚することになり、夫婦仲は良かったのだけど忠輝さんの改易により離縁して、その後は実家のある仙台に移って生涯独身のまま過ごしたもく

五郎八姫さんが生きたのはバテレン追放令後の時代だったため、確かな史料は残っていないようだけど、キリシタンだったのではないかといわれ、離縁後独身のままだったこともそれが関係しているのではないかという考察もあるみたいもく

 

 

 

松倉重政 さんは、筒井家の重臣松倉右近さんの長男で、はじめ筒井順慶さんに仕えて、順慶さん没後に跡継ぎの定次さんが転封されたことを機に豊臣家の直臣となったもく

関ヶ原の戦いでは東軍に付いて戦い、徳川家康さんから評価されて大和の五条二見城主になると、大坂の陣でも活躍して肥前の日野江に加増転封されたもく

五条や日野江の発展に寄与したとする評価もある一方で、日野江に移ってからは過重な年貢徴収など苛政も目立ちはじめ、江戸幕府の政策の潮流に乗ってキリシタンも厳しく弾圧するようになっていったため、息子の代で引き起こされる島原の乱の遠因を作ったといわれているもく

 

 

 

吉良親実 さんは、四国の覇者・長宗我部元親さんの弟である吉良親貞さんの子に生まれたもく

智勇に優れ若い頃から功を立てて、元親さんの娘を娶ることを許されるなど、元親さんから重用されたのだけど、長宗我部家の跡継ぎ騒動時の進言によって元親さんの怒りを買ってしまうもく

加えて、元々犬猿の仲であった元親さんの側近の久武親直さんが、その機に乗じて親実さんを陥れようとする告げ口などをしたため、親実さんは切腹させられてしまうもく

それだけでは収まらず親実さんの家臣達も次々と斬られるのだけど、親実さん達が非業の死を遂げてからは度々不可思議なことが発生するようになったそうで、その怪異が現代の四国、中国地方に伝承される祟りや妖怪の類「七人みさき」の起こりではないかともいわれているもく

 

 

 

戦国時代の関東周辺では、北条家、武田家、上杉家、今川家など大国同士の対立と同盟が繰り返されていたもく

桂林院 さんは、北条氏康さんの娘で、長篠の戦い前後の時期に武田家再起に向けて北条家との同盟強化に動いていた武田勝頼さんのもとに継室として嫁いだもく

桂林院さんの兄には、北条家四代当主の氏政さんや、上杉謙信さんの養子になっていた上杉景虎さんがいるもく

謙信さんの死によって、景虎さんと景勝さんの間で上杉家の後継者争い御館の乱が起こると、当初勝頼さんは桂林院さんや北条家との関係から景虎さんを支持したものの、この時期には武田家と上杉家も友好関係にあったため、争いを景勝さんが制すると、そのまま景勝さんと同盟関係を結んだもく

それをよしとしなかった北条家とは同盟関係が解消されてしまうのだけど、桂林院さんは武田家に留まり、武田家安泰のための奉納をするなど夫に尽くし、最期の時を共にするまで添い遂げたもく

 

 

 

肥前の龍造寺家臣の家に生まれた 成富茂安 さんは、十一歳の時に若過ぎるため出陣の許可が出なかったことに納得がいかず独断で戦場へ物見に出るなど、幼少から青年期は血気盛んな性格だったと伝わるもく

主君の龍造寺隆信さんからはその様子を評価され小姓として仕えると、十七歳で初陣を飾り、次々と武功をあげて出世していったもく

年齢を重ねて血気盛んさが落ち着いてくると、知略縦横の曲者となっていき、機知に富んだ様々な逸話を残したもく

戦国の世が終わってからは利水開発や洪水防止の事業で手腕を発揮し、「治水の神様」と呼ばれて後世でもその功績が高く評価されているもく

 

 

 

穂井田元清 さんは、中国地方の覇者・毛利元就さんの四男で、「三本の矢」として知られる兄達からは年の離れた異母弟となる人物もく

何しろ三人の兄達が有名であり甥には毛利輝元さんもいて、さらに元就さんが正室の子と側室の子の扱いを明確に切り分けていたこともあって、影の薄い存在になりがちなんだけど、「謀神」と呼ばれた父の才を受け継いでいることを実績で示し、毛利軍総大将を担う時期もあるなど、生涯を通して毛利家の屋台骨を支えたことから、四本目の矢の役割を果たしていたと評価する声もあるもく

また、元清さんの子孫達は毛利本家の養子となり、江戸時代中頃には嫡流となってその血筋は引き継がれていったもく


 

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】2024 年 2 月の追加武将一覧

こんにちは~~~のろしですもく o(`・ε・´)ノ

 

戦国IXA 新たなる舞台
 流天絶 ~ 静謐の争奪 ~ 

noroshi-sengokuixa.hatenablog.com

 

新章が開幕して早くも10日ほどが経ち
今週末 2月23日(金) には
新たなる舞台での初合戦相手国発表を迎えるけれど
その前にこちらをチェックもく (σゝз・)σ

 

 

 2月 追加武将 が 公開されました もく

 

 

追加されるのは

【 極 】 塚原卜伝さん 稲姫さん 堀秀政さん 毛利勝永さん

【 特 】 黒田利高さん 北条高広さん 畠山義春さん

【 上 】 熊谷信直さん 

【 序 】 武田元繁さん

以上の 9 名

 

 

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堀秀政【 極 】、毛利勝永【 極 】は

取引出品・譲与不可で

2024年5月予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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鹿島神宮の神官で、「鹿島中古流」を伝承する卜部吉川家に生まれた 塚原卜伝 さんは、「香取神道流」を修める塚原家の養子となり、実父と養父のそれぞれから剣術の手ほどきを受けたもく

塚原家は小領主であったけれど、卜伝さんは度々廻国修行をおこない、生涯の多くの時間を旅に費やしたといわれているもく

秘剣といわれる「一之太刀」を完成させた卜伝さんは、常人には辿り着くことのできない剣境に達し、三十七度の合戦、十九度の真剣勝負、木刀を用いた数えきれないほどの試合にのぞんで、その戦績は無敗を誇り、傷らしき傷を受けたことすらなかったと伝わっているもく

 

 

 

小松姫の名でも知られる 稲姫 さんは、徳川四天王の一人である本多忠勝さんの娘として生まれ、真田昌幸さんの長男である真田信之さんの正室となったもく

稲姫さんは徳川家康さんの養女として真田家へ嫁いだという説もあり、この婚姻は、長年敵対関係にあった徳川家と真田家が和解して、良好な関係を築くための政略結婚であったと考えられるもく

忠勝さんの血によるものか、稲姫さんは非常に勝ち気な女性だったといわれ、石田三成さんの挙兵により夫の信之さんの敵方となった義父の昌幸さんが、孫の顔を見るために沼田城へ立ち寄った際には、信之さんから沼田城の留守を預かる稲姫さんが武装して開門を拒み、昌幸さんらを追い返したと伝わっているもく

 

 

 

織田信長さんに仕えて五千石を領する堀秀重さんの子として生まれた 堀秀政 さんが、十三歳で信長さんの小姓に取り立てられたのは、その美しい顔立ちのためともいわれているけれど、その後、若年で各種の奉行職を務めあげたことを考えると、やはり非凡な能力によってその地位を得たものと思われるもく

「名人久太郎」の異名を持つ秀政さんは、ひとのこころをよく理解し、こまやかな配慮を用いて物事に対処することができたため、家臣から慕われるだけでなく、織田家重臣たちからも頼りにされていたと伝わっているもく

秀政さんは合戦においても幾度となく名人ぶりを発揮しており、本能寺の変のあと、秀吉陣営として参加した小牧・長久手の戦いでは、味方の軍勢が大崩れするなか、的確な判断で敵軍を迎撃し、徳川軍に大打撃を与えたといわれているもく

 

 

 

豊臣秀吉さんに仕えた 毛利勝永 さんは、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、戦後改易されて土佐の山内家に預けられたもく

山内家では千石の封地を与えられるなど手厚くあつかわれたけれど、大坂から豊臣秀頼さんの密使が訪れて入城を要請すると、勝永さんは一計を案じて土佐を脱出し、大坂の陣において真田幸村さんとともに獅子奮迅の活躍を見せたもく

土佐脱出にあたり、勝永さんは妻子に向かい「秀頼公に一命を捧げて豊臣家の恩に報いたいが、入城すればお前たちに難儀がかかるだろう」と涙を流したけれど、妻は「君ために働くのは家の名誉、残る者のことが心配ならば、わたくしどもはこの島の波に沈み一命を絶ちましょう」といって勝永さんを励ましたといわれているもく

 

 

 

「黒田二十四騎」と称される黒田家の精鋭二十四名から、さらに選りすぐった八名を「黒田八虎」と称し、黒田孝高さんの弟にあたる 黒田利高 さんは、その黒田八虎の筆頭に位置づけられている人物もく

中国攻めを開始した織田家に従うかたちで、孝高さんとともに羽柴秀吉さんの配下となった利高さんは、本能寺の変のあとも秀吉さんに従い、孝高さんが豊前中津城主となった際には、一万石を分与されて豊前高森城主となったもく

実直で柔和な人物だったとされる利高さんは、甥の黒田長政さんが黒田家の当主となるとその後見役を務め、道で長政さんの駕籠と行き会うことがあれば必ず下馬して平伏し、他の家臣たちに忠義の手本を示したといわれているもく

 

 

 

長尾景虎(のちの上杉謙信)さんに仕える越後国北条城主 北条高広 さんは、武田信玄さんに内応し、北条城にこもって景虎さんに反乱を起こしたけれど、長尾軍の猛攻を受けると降伏し、再び景虎さんに仕えたもく

帰参した高広さんは関東方面の政治や軍事を任されるなど重く用いられたけれど、北条氏康さんの調略を受けると再び謙信さんに背き、その後、上杉家と北条家が越相同盟を結んで和睦したため微妙な立場となったものの、北条氏政さんの仲介によって再び上杉家に帰参したもく

「器量、骨幹、人に倍して無双の勇士」と称されるほど優れた武将であった高広さんは、諸大名から軍神とおそれられる謙信さんを悩ませた「家中一の粗忽者」でもあったもく

 

 

 

足利一門に連なる能登畠山家に生まれた 畠山義春 さんは、人質として上杉家に送られ、一度は上杉謙信さんの養子となったけれど、その後、上杉一門である上条政繁さんの養子となり、上条姓を称したもく

上杉家で武功を重ねた義春さんは、謙信さんが亡くなり上杉景勝さんが家督を継いだあとも上杉家に仕えたけれど、のちに上杉家を出奔して、豊臣秀吉さんの直臣となったもく

関ヶ原の戦いでは東軍に与し、大坂の陣においても最終的に徳川方に属した義春さんは、家康さんの命により畠山姓に復し、江戸幕府に仕えたもく

 

 

 

安芸武田家に従属する国人領主 熊谷信直 さんは、源頼朝さんの御家人として鎌倉幕府成立に貢献した熊谷直実さんの直系の子孫であり、父の熊谷元直さんが有田中井手の戦いで討死したことを受けて家督を継いだもく

この有田中井手の戦いで当主の武田元繁さんや多数の重臣を失った武田家は衰退の一途を辿りはじめ、元繁さんの跡を継いだ武田光和さんとの対立を深めた信直さんは、武田家を離れ、父の仇である毛利家に従うようになったもく

毛利家の吉川元春さんが信直さんの娘を正室としたため、信直さんは毛利家の一門衆として扱われるようになり、生涯不敗といわれる元春さんを岳父として支えたもく

 

 

 

若狭武田家の分家にあたる安芸武田家は、佐東銀山城を居城として勢力を保持していたけれど、大内義興さんの侵攻によって大内家に服属することとなったもく

父の病死にともなって安芸武田家の家督を継いだ 武田元繁 さんは、足利義材さんを奉じて上洛軍を起こした義興さんに従い上洛したけれど、義興さんの不在が長期化するうちに安芸国内で内訌が生じたため、義興さんの命を受けて、鎮圧のために帰国することとなったもく

しかし、帰国した元繁さんは尼子家との関係を強化して大内家を離反し、安芸国内で勢力を拡大すべく兵を動かし、最期は毛利吉川連合軍との合戦で矢を受けて落馬したところを討ち取られたといわれているもく

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】「 流天絶花 ~ 静謐の争奪 ~ 」 新天情報

2024 年 2 月 9 日( 金 )

   戦国IXA    新たなる舞台が開幕・・・!

流天絶 ~ 静謐の争奪 ~

 

 

 

↓↓  新たなる舞台の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/season27_wagahana/

 

 

新たなる舞台では

 

新【 傑 】武将カードとして 

室町幕府 最後の将軍が登場するもく!!!!

 

そして 大殿ならびに

新【 天 】武将カードとして 12 名の猛者達が登場するもく!!!!

 

 

 

↓↓  【傑】 の詳細はこちらもく

https://sengokuixa.jp/new_rarity/

 

足利義昭 さんは、室町幕府の第十五代、そして最後の将軍もく

第十二代将軍・義晴さんの息子として生まれたけれど、足利将軍家家督相続は長兄が担うことが慣例となっていたため、仏門に入っていたもく

しかし、兄であり第十三代将軍だった義輝さんが三好家勢力による永禄の変にて殺害されてしまったことで、運命が大きく変わることになるもく

当時は、将軍家の権威が衰えており、各地の戦国大名達が覇を競い名乗り上げていた時代で、その中でも躍進著しかったのが尾張織田信長さんだったもく

将軍家復権の思いを抱き還俗した義昭さんと、中央への進出を図る信長さんの利害が一致し、義昭さんは信長さんの協力によって将軍に就任することができたもく

ただ、良好な関係は長くは続かず袂を分かち、その後は諸将と連携して信長包囲網を築いていくことになるもく

 

 

 

戦国時代の顔役のひとり、現代でも多くの創作物に登場するなど人気の戦国武将で、誰しもその名を一度は耳にしたことがあるであろう英傑が、織田信長 さんもく

尾張戦国大名織田信秀さんの嫡男に生まれ、若年の頃には尾張の大うつけなどと嘲笑されたけれど、家督争いを収束させて尾張統一を成し遂げると、桶狭間の戦いにおいて当時覇権を握っていた今川義元さんを討ち取り、一躍その名を全国に知らしめたもく

覇道を歩み始めた信長さんは、将軍・足利義輝さんが殺害された後の、義輝さんの弟・義昭さんによる室町幕府再興の呼びかけに呼応し、義昭さんと共に上洛を果たしたもく

当初の信長さんは室町幕府再興に本気だったともいわれ、自身が将軍就任を後押しした義昭さんとの関係も良好であったけれど、次第に不和となって義昭さんを見限り追放したことで逆に室町幕府にとどめを刺す形となり、その結果、独自の中央政権維持のために、より苛烈な戦いに身を投じていくことになるもく

 

 

 

織田信長さんによって京を追放された足利義昭さんが頼ったのが、安芸の戦国大名 毛利輝元 さんもく

輝元さんは、一代で毛利家を中国地方の覇者に押し上げた元就さんの孫で、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将を務めたこともよく知られている人物もく

後にその大役を担うほどまでに毛利家の格が上がったことについては、将軍・義昭さんを庇護したことも少なからず影響があっとも考えられるもく

毛利家と織田家は義昭さんが将軍に就任した当時は同盟関係にあり、義昭さん追放後もその関係が続いていたため、頼られてすぐの頃には輝元さんも義昭さんの扱いに難儀したけれど、やがて信長さんが京から西方へ進出しようとする動きを見せ始めたため、輝元さんは反信長の立場になることを決意したもく

備後国に義昭さんを将軍に据えた室町幕府亡命政権が生まれると、その副将軍に任じられた輝元さんは、中国地方だけでなく全国で一目置かれる存在となっていくもく

 

 

 

武田勝頼 さんは、戦国最強軍団を率いた武田信玄さんの後継者もく

織田信長さんと仲違いになった将軍・足利義昭さんによる信長包囲網と時期を同じくした武田家の西上作戦の最中に、信玄さんが急死してしまったため、勝頼さんがその意志を継いで信玄さん亡き後の武田家を武勇によって牽引したもく

しかし、信玄さんの死の影響は大きく、長篠の戦いで織田徳川連合軍の前に大敗してしまい、窮地となった勝頼さんは、上杉家、北条家との同盟強化に乗り出すことになるもく

そこに思いがけない助けとなったのが、将軍である義昭さんからの、武田上杉北条の三者協力を促す呼びかけだったもく

同盟強化に成功した勝頼さんは、義昭さんを庇護していた毛利家とも同盟を結び、共通の敵である織田家に立ち向かっていったもく

 

 

 

北条氏政 さんは、強者揃いの関東勢の中、北条五代の四代目として優れた手腕を発揮し、最大版図を築いたもく

家督相続後は、父・氏康さんとライバル関係にあった信玄さんの武田家、謙信さんの上杉家と何度も敵対や同盟を繰り返しながら名声を確立していき、豊臣秀吉さんが天下を狙う頃には最期まで徹底抗戦する気概を示したもく

足利義昭さんとは生年が近くほぼほぼ同時代を生きており、義昭さんと織田信長さんの対立に関連して将軍家側から様々な働きかけも受けていたけれど、当時の北条家は織田家との友好関係の時代が長く、また、関東では伝統的に中央政権からの自立志向もあったようで、それらも影響したのか、中央のいざこざに深く関わった様子はあまりなかったみたいもく

 

 

 

代々近江国の守護を担い、将軍足利家とも縁深かった名門の六角家は、十四代の定頼さんとその子である 六角承禎 さん親子の時代に最盛期を誇ったもく

定頼さんは時の将軍であった足利義輝さんを度々庇護し、その跡を継いだ承禎さんにおいても、将軍家の権威を脅かそうとする三好長慶さんと何度も争ったり、義輝さんと長慶さんの和睦を仲介したりして存在感を示したもく

その後、浅井長政さんの台頭などによる近江での勢力争いに身を置いていたけれど、義輝さんが三好家勢力により殺害される事件によって状況が変わるもく

はじめ承禎さんは将軍家の復権を目指し行動を開始した足利義昭さんに協力する方針だったものの、三好家の説得によって敵対の方針に転じ、これによって義昭さんを奉じた織田上洛軍との戦いの火ぶたが切られて、何度も信長さんに抗っていくことになるもく

 

 

 

豊臣秀吉 さんは、一代にして関白にまでのぼりつめ、天下統一も成し遂げた戦国一の出世頭として、織田信長さん、徳川家康さんと並び、三英傑と称されたもく

若くして織田家の有力家臣となり、信長さんの天下布武を目指した勢力拡大の動きの中で功績を重ねて成り上がっていったもく

そうして信長さんから厚い信頼も得た秀吉さんは、毛利家を討つための中国攻めの大役を任されたのだけど、その最中に起こったのが本能寺の変もく

いずれも遠征に出ていた織田家重臣らの中で、秀吉さんは信長さん討死の報に対していち早く反応し、かたきである明智光秀さん討伐を足掛かりとして、織田政権の後継者争いに勝利することになるもく

自らの政権を確立して関白に任じられた秀吉さんは、追放されていた将軍・足利義昭さんを京に呼び戻すと、将軍職を朝廷に返上させたうえで厚遇し手駒とするなど、権勢をほしいままにしたもく

 

 

 

宇喜多直家 さんは、下剋上によってのし上がり、豊臣秀吉さんの将来を見込んで預けた息子の秀家さんが豊臣政権の五大老のひとりになるなど、宇喜多家を戦国大名へと押し上げた人物もく

幼少期には苦難の人生を過ごし、その際に斎藤道三さんや松永久秀さんに並ぶような悪人人格が形成されたといわれ、嘘か真かわからないものも含めて、目的のためには手段を選らばぬ逸話が数多く伝わっており、戦国の三梟雄のひとりとも評される陰謀家のイメージが定着しているもく

実際どうだったのかはともかくとして、青年期の直家さんは備前国戦国大名浦上宗景さんの下で力をつけていき、足利義昭さんが将軍になった際に、それに従う様子のなかった宗景さんに反旗を翻したもく

既に中国地方有数の実力を備えるに至っていた直家さんは独立の道を選び、織田信長さんの命を受けて中国地方に進出していた秀吉さんや、中国地方の有力大名・毛利家らが陣取る舞台に歩を進めていくことになるもく

 

 

 

ルイス・フロイスさんから日本最大の海賊と評されたのが、村上水軍を率いた 村上武吉 さんもく

村上水軍は、能島、来島、因島の三島に分かれてそれぞれ独自の勢力として瀬戸内海を支配していたのだけど、武吉さんは能島村上水軍の後継者争いを制して、他勢力とも良好な関係になるなど、村上水軍の全盛期を築いていったもく

大内義隆さんを討って大国大内家の実権を握った陶晴賢さんと、毛利元就さんの間で起こった厳島の戦いでは、毛利家に味方したといわれ、この戦いによって中国地方の覇権が毛利家に移ってからは、毛利水軍の一員としての活動が多くなるもく

毛利輝元さんが将軍・足利義昭さんを庇護して織田信長さんと戦うことになると、村上水軍は第一次木津川口の戦いの大勝に大いに貢献したと伝わるもく

 

 

 

相良義陽 さんは、十二歳という若年で相良家第十八代当主となり、内乱をおさめて国をまとめ上げたもく

相良家は肥後南部を拠点としていて、代々周辺では大国同士がしのぎを削っており、義陽さんの時代においても大友家、島津家、龍造寺家などの強豪が周囲を囲んでいたもく

そうした地盤もあったためか、義陽さんは、朝廷や幕府への献金を積極的に行い中央との関係を強化していたようで、織田信長さんが足利義昭さんを奉じて上洛し、義昭さんのための二条城修築費用を諸大名に求めた際には、朝廷への貢租七年分相当の費用を献じたそうもく

そして、先祖代々の地を守ろうと腐心し続けた義陽さんは、抵抗むなしく島津家に降ることになってしまうのだけど、壮絶な最期と引き換えに本領と家柄を守りぬくことに成功するもく

 

 

 

土佐七雄のひとつであった家に生まれた 長宗我部元親 さんは、幼少の頃は色白でおとなしく、家臣からも姫若子と揶揄されて、初陣も当時としてはかなり遅い年齢だったもく

しかし、初陣で周囲の評価を大きく変えるほどの大活躍をし、以降は鬼若子と呼ばれるほどの勇猛さと無類の強さで土佐を平定したもく

元親さんの正室は、将軍・足利義輝さんの家臣の親戚で、明智光秀さんにも縁のある人物だったもく

義輝さんが殺害された事件後に足利義昭さんを奉じて中央で絶大な力を得ていた織田信長さんとは、光秀さんを通じて繋がり、信長さんから四国でのさらなる勢力拡大を容認されることになるもく

かくして元親さんは四国の覇者へと至るのだけど、その後には、信長さんの同盟反故、本能寺の変、大敵秀吉さんとの対立という激動が訪れるもく

 

 

 

伊達輝宗 さんは、祖父・稙宗さんと、父・晴宗さんの間で起こった内乱によって衰弱していたお家を立て直し、その後の伊達家躍進の土台を築いた名将もく

外交を得意として、周辺勢力だけに留まらず、足利義昭さんを奉じて中央の実力者となっていた織田信長さんとも友好関係を構築するなど手腕を振るったもく

嫡男には政宗さんがおり、手厚い教育を施し、さらに有望な若手家臣を家中から選んで、片倉景綱さんなど後に政宗さんの側近となり活躍する者達を早くから息子に仕えさせたもく

また、自身が健在のうちに政宗さんに家督を譲っているけれど、これも政宗さんのことを案じて無用な後継者争いが起こらぬよう思案したものではないかと推測されているもく

最期もまた息子のためにという状況だったようで、人質としてさらわれた際に、伊達家の枷になるわけにはいかないからと、自身もろとも敵を討つよう促して命を落としたもく

 

 

 

戦国最強の兄弟という呼び声も高いのが薩摩の島津四兄弟で、島津家久 さんは、その末弟だったもく

中興の祖である祖父の忠良さんから「軍法戦術に妙を得たり」と評されるなど若い頃から軍才を有したようだけど、自身のみ兄達とは母親が異なっていたことに引け目を感じて日々武芸に励んでいたため、その才能はより磨かれていき、初陣にして敵将を討ち取る活躍を見せたもく

毛利家に身を寄せていた将軍・足利義昭さんから島津家に対して、中央に目を向ける毛利家の背後を脅かそうとしていた大友家を止めるよう御内書が出されると、家久さんは大友軍を相手にした耳川の戦いでも戦巧者ぶりを遺憾なく発揮したもく

耳川の戦いにより大友家が衰退すると、九州の覇権は、島津家、龍造寺家の間で争われ、家久さんは必殺の釣り野伏によって敵の大将である龍造寺隆信さんを討ち取る大功を立てて、島津家を九州制覇へと導いたもく

 

 

 

 

なお

足利義昭【 傑 】 織田信長【 天 】 毛利輝元【 天 】 については

取引出品・譲与不可とのこともく

 

 

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今回の【傑】【天】武将カード追加時に

下記の

【傑】武将カードは 全てのくじから
【天】武将カードは 一部くじより 排出停止とのこともく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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【戦国IXA】2024 年 1 月の追加武将一覧

こんにちは のろしですもく (・ε・)ノ

 

戦国IXAでは

「 今後の統合計画とワールド再編成計画 」や

https://sengokuixa.jp/2023_24_schedule/

「 2024年2月の新章突入までの各種日程について 」が発表され

https://sengokuixa.jp/info.php?news_id=n658d29991375e

 

来期のことが気になる今日このごろですが

そのまえに2024年1月も 戦国IXAに 新しい武将たちが登場もく

 

 

 1月追加武将 が 公開されました もく 

 

 

追加されるのは

【 極 】 東向殿さん 浅井亮政さん 支倉常長さん 長谷川等伯さん

【 特 】 石川五右衛門さん 鈴木重朝さん 高坂甚内さん

【 上 】 頴娃久虎さん 

【 序 】 桂元澄さん

以上の 9 名

 

 

さらに

【 天 】 上杉景勝さん 毛利輝元さん

以上の 2 名が 

スキルやステータスを新しくした復刻版として登場するとのこともく

 

 

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支倉常長【 極 】、長谷川等伯【 極 】

上杉景勝【 天 】、毛利輝元【 天 】は

取引出品・譲与不可で

2024年4月予定のアップデートメンテナンスにてラインナップから外れるとのこともく

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全国の大名たちから「軍神」とおそれられた上杉謙信さんが急死すると、御館の乱と呼ばれる家督相続争いに勝利した 上杉景勝 さんが上杉家を継承し、腹心の直江兼続さんとともに内乱後の上杉家をまとめあげたもく

謙信さんは、儒教で説かれる仁・義・礼・智・信の「五常の徳」を規範としていたといわれ、謙信さんの薫陶を受けた景勝さんと兼続さんもまたこの教えを重んじ、戦乱の世に上杉家の「義」を示し続けたもく

豊臣政権において五大老として重きをなした景勝さんは、おなじく五大老のひとりである徳川家康さんが天下をねらう態度をあらわにし、おおくの諸大名もそれになびく情勢の中で、一貫して反家康の旗幟を鮮明にし、さらに挑発的ともいえる態度で家康さんの言動を批判して、関ヶ原の戦いのきっかけとなる会津征伐へと家康さんを踏み切らせたもく

 

 

 

毛利元就さんは、裏切りや陰謀が渦巻く戦国の世で権謀術数の限りを尽くし、一代にして毛利家を一国人領主から中国地方の覇者にまで飛躍させたけれど、元就さんから家督を譲られた毛利隆元さんが元就さんに八年先立って世を去ったため、まだ幼いながら隆元さんの嫡男 毛利輝元 さんを毛利家の当主に据えざるを得なかったもく

元就さんの死後、毛利両川と称される二人の叔父に補佐された輝元さんは、織田家羽柴秀吉さんが中国地方へ進出してくるとこれと交戦し、次第に旗色がわるくなってきたものの、本能寺の変がおこったため秀吉さんは和睦を結んで撤兵せざるを得なくなり、毛利家は危機を脱したもく

輝元さんは、天下人への道を歩みはじめた秀吉さんに臣従することを選択し、元就さん以来の領地の多くを安堵され、豊臣政権下においては五大老に任じられるなど重くあつかわれたもく

関ヶ原の戦いでは西軍の総大将として擁立されて大坂城に入ったものの、輝元さんはそこから動かず、戦場に赴くこともないままに戦いは終結してしまったもく

 

 

 

大内家に仕える内藤家は、家老として代々長門守護代を務めるなど大内家内で重きをなした家柄だったけれど、内藤弘矩さんが当主の時代、主君の大内義興さんに対し讒言する者があり、それを信じた義興さんの指示により弘矩さんは誅殺されてしまったもく

のちに弘矩さんの無実が判明し、誅殺したことを悔いた義興さんは、弘矩さんの娘 東向殿 さんを正室に迎え、弘矩さんの弟である内藤弘春さんを当主に据えて内藤家を再興させたもく

東向殿さんは非常におだやかで優しい女性であったといわれ、義興さんの没後に家督を継いだ大内義隆さんが領土的野心や政治的関心に乏しい文治主義者となったのは、母である東向殿さんの影響もあったのではないかといわれているもく

 

 

 

北近江の国人浅井家の傍系に生まれた 浅井亮政 さんは、浅井家嫡流である浅井直政さんの娘と結婚し、宗家の家督を継承したもく

北近江半国の守護であり浅井家の主君である京極高清さんが、京極家の家督を長男の高延さんではなく次男の高吉さんに譲る意向を示したことによってお家騒動が巻き起こると、亮政さんは高延さんの家督継承を支持して高清さんと対立したもく

このお家騒動に乗じて、高清さんや高吉さん、そして高吉さんを支持した上坂信光さんらを国外へ追放することに成功した亮政さんは、次第に京極家中における実権を掌握して勢力を拡大し、浅井家三代と称される繁栄の基礎を築いていったもく

 

 

 

伊達政宗さんの命を受け、慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパに渡った 支倉常長 さんは、マドリードにてスペイン国王に謁見し、国王ら臨席のもと洗礼を受けたあと、ローマにてローマ教皇パウルス5世に謁見し、ローマの市議会からは市民権と貴族の位を認めた「ローマ市公民権証書」を与えられたもく

パウルス5世に謁見した際、常長さんが懐紙を用いて鼻をかんだところ、手鼻かハンカチで鼻をかむ習慣しか持たない西洋ではそれが大層めずらしかったようで、常長さんの捨てた懐紙がバチカンの人類博物館に展示されたといわれているもく

常長さんら使節は、長期間ヨーロッパに滞在して、スペインとの通商などを目的とした交渉に尽力したけれど、日本国内ではキリスト教の弾圧がおこなわれており、その努力が実ることはなかったもく

 

 

 

能登国七尾に生まれた 長谷川等伯 さんは、養父である長谷川宗清さんが等春さんという画家の門人であったため、宗清さんから手ほどきを受けて日蓮宗関係の仏画肖像画などを描くようになったもく

三十歳をすこし過ぎた頃、養父母の他界を機に妻子を連れて活動の場を京へ移した等伯さんは、狩野永徳さん率いる絵師集団の狩野派が君臨する画壇において、次第に千利休さんなどの権力者に重用されるようになり、狩野派と対抗しうる存在へと成長したもく

養父の師である等春さんが水墨画の大家である雪舟さんの弟子であったことから、等伯さんは晩年、自身を雪舟さんから五代目にあたると標榜し、「雪舟五代」と自称したといわれているもく

等伯さんの代表作である「松林図屏風」は日本水墨画の最高傑作と称されており、「雪舟五代」にふさわしい評価を得ているもく

 

 

 

稀代の大泥棒として有名な 石川五右衛門 さんについては、虚実とりまぜた伝承が語られ、その実在を疑問視する声もあるけれど、日本に滞在していたスペインの貿易商人が記した「日本王国記」や、公家の山科言経さんが記した「言経卿記」において、実在を思わせる記述が確認されているもく

伊賀流忍者の抜け忍であったともいわれる五右衛門さんは、百地三太夫さんのもとで修行を積んだのち、そこで体得した忍術を駆使して裕福な屋敷などに忍び込み、盗みを働いたといわれているもく

歌舞伎狂言「楼門五三桐」では、追手に追われる五右衛門さんが、南禅寺の山門の上で煙管を片手に、「絶景かな、絶景かな」と夕暮れ時の桜を眺める名場面が演じられるもく

 

 

 

鈴木重朝 さんの出自は、紀州の鉄砲傭兵集団である雑賀党鈴木家と考えられていて、石山合戦織田信長さんを苦しめた鈴木重秀さんの子であるという説があるけれど、重秀さんと同一人物であるという説や弟であるという説もあり、はっきりとしたことはわかっていないもく

豊臣政権下において、秀吉さんに仕えていたとみられる重朝さんは、秀吉さんの没後は鉄砲頭として豊臣秀頼さんに仕え、関ヶ原の戦いでも西軍に属して戦い、伏見城攻防戦で鳥居元忠さんを討ち取ったと伝わっているもく

関ヶ原の戦いのあと浪人となった重朝さんは、伊達政宗さんの仲介によって、元忠さんの主君である徳川家康さんに許され、三千石で召し抱えられることとなったもく

その後、重朝さんは、水戸徳川家の祖となる徳川頼房さんに仕えることを命じられ、鈴木家は、重朝さんの子の代に姓を雑賀とあらため、水戸藩重臣として明治維新まで続いたもく

 

 

 

江戸時代初期、「関東各地を荒らしまわる盗賊の首領は風魔の子孫たちである」と江戸町奉行所に密告し、「盗人狩り」を主導して盗賊を根絶やしにしたといわれる人物が 高坂甚内 さんもく

下総国向崎の出身と考えられている甚内さんは、武田家の重臣高坂昌信さんの子であるという説もあるけれど、実は自身も盗賊団を組織する大泥棒だったとされ、「盗人狩り」により商売敵を一掃して勢力を拡大すると、甚内さんの手下たちは江戸や関東にとどまらず日本各地を荒らしまわったといわれているもく

しかし、各地で捕まった盗賊の口から、甚内さんの大盗人としての所業が奉行所の知るところとなり、甚内さんは市中引き回しの上、浅草原で磔にされたと伝わっているもく

 

 

 

肝付家に生まれ島津久豊さんの養子となった肝付兼政さんが薩摩国頴娃の領主となり、そこから数えて七代目の当主が 頴娃久虎 さんで、久虎さんは頴娃兼賢さんの次男だったけれど、異母兄である頴娃兼有さんが亡くなったために家督を継いだもく

兼有さんの死については、久虎さんの母と兼有さんの対立が起因となり、久虎さんの家臣が兼有さんを襲撃して殺害するに至ったといわれているもく

勇将であったと伝わる久虎さんは、高原城攻め、耳川の戦い水俣攻めなど、島津家の戦いに度々参加して武功を重ね、時には自ら敵陣を偵察することもあり、その豪胆さを島津義弘さんから讃えられたもく

 

 

 

毛利家の一族で毛利宗家の執政を務める坂家に生まれた坂広澄さんは、分家して桂姓を名乗り、その嫡男 桂元澄 さんは、毛利家の家督を相続する毛利元就さんに対し起請文を提出して忠誠を誓った宿老十五人のうちの一人もく

元澄さんの叔父である坂広秀さんらによる謀反が発覚した際、広秀さんの兄である広澄さんは、元就さんが制止したにもかかわらず責任をとって自害し、元澄さんもまた自害を決意したけれど、元就さんの説得により思いとどまり、生涯を通して元就さんの忠臣でありつづけたもく

 

 

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今回の武将追加時にラインナップから外れるカードは下記の武将カードになりますもく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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